ラグビー日本代表・山田章仁のトライには華があった 九州の韋駄天は40歳になっても走り続ける (2ページ目)
【「小倉の山田」と呼ばれた高校時代】
「ハタケ(畠山)を信じていましたし、相手が体の上にヒットしてくるのがわかったので、回転しました。ワールドカップの初トライはうれしかったです!」
相手をくるりと回転してかわしたプレーは、世界のメディアが「忍者トライ」と称して絶賛した。ワールドカップの大舞台で最高のプレーを見せた山田は、この時ちょうど30歳。彼はどのようなラグビー人生を歩んできたのか、あらためて振り返ってみる。
日本ラグビー屈指の「韋駄天」が生まれた地は、福岡県北九州市。YMCAラグビースクール(現ヤングベアーズ)で5歳から競技を始めた。その後、名門クラブの鞘ヶ谷ラグビースクールを経て、福岡の強豪・小倉高へと進学する。
高校時代に花園出場は叶わなかったものの、スピードとステップに長けたプレーは九州随一。「小倉の山田」は同世代で抜きんでた存在だった。高校2年時にはFB五郎丸歩(佐賀工高)、CTB今村雄太(四日市農芸高)らとともに、日本ラグビーの将来を担う「エリートアカデミー」の9人のひとりに選出されている。
小さい頃から海外志向・プロ志向の強かった山田は、慶應義塾大の総合政策学部に進学。黒黄のジャージーをまとった九州の韋駄天は、独特のステップとスピード、アクロバティックなトライで1年時から秩父宮ラグビー場を沸かせた。また、大学生活ではオーストラリアに留学したり、個人トレーナーのもとで体を鍛えたりと、自らの研鑽を惜しまなかった。
大学3年時には、7人制ラグビーの日本代表にも選ばれ、アジア大会の決勝で試合を決めるトライを挙げて金メダル獲得に寄与している。最終学年の2007年度は「早慶戦」で敗れて関東大学対抗戦2位、大学選手権でも早稲田大に敗れて準優勝。惜しくも日本一の称号は逃してしまったが、山田の存在感は増すばかりだった。
大学ラグビーファンの誰もが、山田はすぐに15人制の日本代表となって活躍するものと期待していた。しかし現実は甘くなく、桜のジャージーへの道のりは予想以上に険しかった。
2 / 4

