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「ラグビー界の中田英寿」岩渕健輔は誰よりも世界を見ていた セカンドキャリアも輝かしい文武両道 (2ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

【村田に続く日本人ふたり目の快挙】

 青山学院大に進学した岩渕は、強豪ぞろいの関東大学対抗戦でも挑戦を続ける。ルーキーイヤーの1994年度には対抗戦5位で大学選手権への切符を獲得したが、1回戦で優勝した大東文化大に敗れた。青山学院大はその後2024年度まで30年間、大学選手権に出場できなかった。

 岩渕が初めて日本代表に選出されたのは大学2年の時、その若さでの選出は当時異例で、将来の司令塔候補として大いに注目された。そして1997年5月に平尾ジャパンの初戦となった香港戦で、平尾誠二監督は岩渕を10番に抜擢。試合は20-42で敗れたものの、スタメンには京都産業大4年のWTB大畑大介も起用されるなど、若きタレントたちの躍動に胸が躍った。

 1998年9月に東京・秩父宮ラグビー場で行なわれたアルゼンチン戦も、岩渕が10番として輝いた試合として覚えている。SH村田亘(わたる)とハーフ団を組んで攻撃をリードし、岩渕はドロップゴールを2本も決める大活躍。アルゼンチンを44-29で下す快挙を成し遂げた。

 青山学院大を卒業した岩渕は、神戸製鋼に入社する。ただ、大学に行く前から「卒業後は海外で勉強したい」と決めていたため、その希望を叶えてくれた神戸製鋼に所属しながら、1998年の秋にイギリス・ケンブリッジ大学の社会政治学部へ進学を決めた。

 ケンブリッジでの大学生活は、ラグビーが主ではなく勉強に重きを置いていた。ただ、オックスフォード大学との定期交流戦への出場は、誰もが憧れる名誉なこと。文武両道でなければピッチに立つことができない。岩渕は交流戦のメンバーに見事に選ばれ、その証である「ブルー」の称号を獲得した。

 2000年にイギリス留学を終えると、岩渕は帰国せずに神戸製鋼を退社し、イングランド1部の名門サラセンズに入団する。海外クラブとプロ契約を結んだのは、1999年にフランスのバイヨンヌでプレーした村田に続き、日本人ふたり目の快挙だった。

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