「ラガーマン大畑大介は永遠に不滅です」 8度の外科手術を乗り越えて立ち上がる生き様にファンは心を打たれた (2ページ目)
【試合に出られずビデオ係という屈辱】
大学卒業後の1998年、大畑は神戸製鋼(現・コベルコ神戸スティーラーズ)に入部する。当時、チームの総監督だった平尾誠二氏に「現状に満足してほしくない。うまくなりたかったらウチに来い!」と誘われ、魂が揺さぶられた。
そして入部早々、大畑は神戸製鋼にとって欠かせぬ選手となる。1999年度と2000年度には全国社会人大会と日本選手権を2連覇し、2003年度から始まったトップリーグ初年度でもリーグ優勝に貢献した。
それらの活躍により、大畑はラグビー界でトップアスリートとなった。ただ、その知名度が一般市民にも通じる全国区になったのは、アスリートが運動能力を競い合うテレビ番組『スポーツマンNo.1決定戦』の放送がきっかけだろう。
2001年の第7回大会に出場した大畑は、いきなり他競技のトップアスリートを抑えて初優勝を飾る(2003年には史上ふたり目となる2度目の総合No.1を獲得)。持ち前のスピードだけでなくパワーも見せつけて、ラグビー界の枠にとどまらない人気を博した。
2000年代初頭の大畑は、まさにスター街道を突っ走っていた。しかし、彼のラグビー人生は決して順風満帆ではない。身長176cm、体重85kgと大きくない体躯で世界と戦えたのは、不撓不屈の精神で日々、努力を重ね続けたからだ。
大阪出身の大畑は、父の影響で小学3年生から競技を始めた。高校は、当時まだ強豪という地位を確立していなかった東海大仰星に進学。高校1年の終わりにSOからFBに転向して足腰のトレーニングを重ねたことによって、のちの驚異的なスピードが生まれたという。
高校2年時、初めて花園に出場するも2回戦で敗退。しかし、当時から目標に向かって努力を続ける「不撓不屈の精神」は変わらず。学校内で使用する上履きには「日本一」と「高校日本代表」と書き、常に上を目指した。
高校3年時、補欠メンバーから繰り上がって、ついに高校日本代表として選出される。しかし、ニュージーランド遠征に帯同するも、出場機会はほとんどなく「ビデオ係」を任された。
その悔しさがあったからこそ、当時の大学で「練習が一番きつい」と評判だった京都産業大に進学する。そこでもたゆまぬ努力を続けたことによって、秘められた能力が一気に開花した。
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