ラグビー元日本代表・田中史朗 家族の涙で「やってきたことは正しかった」引退がよぎったのはあの試合後 (3ページ目)

  • 齋藤龍太郎●文 text by Saito Ryutaro

【ハイランダーズでものすごく大きな経験】

──後にスーパーラグビーのハイランダーズと契約することになる田中さんにとって、オタゴではイメージどおりにステップアップできたのではないでしょうか?

 まず(その下のカテゴリーの)クラブラグビーでしっかり自分のプレーをして結果を残さないとオタゴには入れなかったので、思っていたよりも厳しかったです。そのオタゴでポジションを争ったのがブラッド・ウェバー(元ニュージーランド代表)だったのですが、ブラウニー(当時オタゴのヘッドコーチを務めていたトニー・ブラウン)は感覚で僕を選び先発させてくれました。のちに彼がオールブラックス(ニュージーランド代表)になった瞬間はうれしかったですね。僕自身の価値も彼が上げてくれたかな、とちょっとした自慢にしています(笑)。

──オタゴでの活躍が実り、スーパーラグビーのハイランダーズから声がかかりました。

 マナワツ(代表)との試合後、バスに乗った瞬間にブラウニーから「ハイランダーズがフミと契約したいと言っている」と聞いて、すぐにジェイミー(・ジョセフ。当時ハイランダーズのヘッドコーチで、2016~23年まで日本代表ヘッドコーチ)に電話で契約の意志を伝えて、涙が止まらなくなりました。

──そして2013年、ハイランダーズで日本人初のスーパーラグビープレーヤーとしてデビューを飾りました。やはりそれまで見てきた景色とは違いましたか?

 まったく違いましたね。ひとつひとつのプレーの質、そして何よりも選手たちの意識が段違いでした。「みんな本当にプロだな」と感じる、州代表以上に意識に磨きがかかった集団でした。

──ニュージーランド代表スクラムハーフとして活躍していたアーロン・スミス選手(現トヨタヴェルブリッツ)とレギュラー争いを繰り広げました。

 当時からひとつひとつのプレーはすごかったのですが、プレーヤーとしてはまだ完全にはでき上がっていない印象がありました。だからこそ自分にもチャンスがあると考えて、努力の末に僕が先発を奪った時、彼は周りから「オールブラックスなのに何をやってるんだ!」などと言われ、それを機にあらためてしっかりとラグビーに向き合うようになったんだそうです。のちに彼から直接そう言ってもらえたことは僕の誇りです。

──移籍3シーズン目の2015年7月4日、ハイランダーズは見事スーパーラグビー初優勝を成し遂げました。

 日本人として決勝の舞台に立てたこと、そしてカップを掲げたことはものすごく大きな経験でした。(リザーブからの)出場はなりませんでしたが、自分にとって誇りにも自信にもなりました。この経験が(約2カ月後の9月に開幕する)ラグビーW杯での心の余裕につながったと思っています。

<前編②へ続く>

■Profile
田中史朗(たなか・ふみあき)
1985年1月3日生まれ、京都府京都市出身。日本代表75キャップ。小4 でラグビーと出合い、中学で本格的に競技を始める。伏見工業(現・京都工学院高校)でスクラムハーフとして成長し、1年時に花園優勝、3年時は花園ベスト4。京都産業大学時代にはニュージーランド留学を経験するなどさらに成長し、2007年に三洋電機(のちのパナソニック。現・埼玉ワイルドナイツ)でトップリーグ(現・リーグワン)デビュー。翌2008年に日本代表初選出。2013年、ニュージーランドのハイランダーズと契約し日本人初のスーパーラグビープレーヤーとなり、3シーズン目の2015年は優勝メンバーに。ラグビーW杯は2011年大会から3大会連続出場。2015年大会で歴史的勝利を収めた南アフリカ戦でプレーヤー・オブ・ザ・マッチに。2019年の日本大会では日本代表初の決勝トーナメント進出に貢献した。リーグワン2023-24シーズン終了をもって現役を引退。

プロフィール

  • 齋藤龍太郎

    齋藤龍太郎 ((さいとう・りゅうたろう))

    編集者、ライター、フォトグラファー。1976年、東京都生まれ。明治大学在学中にラグビーの魅力にとりつかれ、卒業後、入社した出版社でラグビーのムック、書籍を手がける。2015年に独立し、編集プロダクション「楕円銀河」を設立。世界各地でラグビーを取材し、さまざまなメディアに寄稿中。著書に『オールブラックス・プライド』(東邦出版)。

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