ラグビー元日本代表・田中史朗 家族の涙で「やってきたことは正しかった」引退がよぎったのはあの試合後 (2ページ目)

  • 齋藤龍太郎●文 text by Saito Ryutaro

引退セレモニーで家族と記念撮影をする田中史朗 Photo by Tanimoto Yuuri引退セレモニーで家族と記念撮影をする田中史朗 Photo by Tanimoto Yuuriこの記事に関連する写真を見る

【2011年W杯敗退で海外行きを決意】

──引退の二文字はいつごろから頭をよぎっていたのでしょうか?

 やはり日本代表としてのキャリアの最後になった2019年(ラグビーW杯日本大会)のあとですね。そこからはメンタル、モチベーションの維持が難しかったです。

 日本大会終了後の東京・丸の内のパレードには約5万人の方々に集まっていただき、「おめでとう」ではなく「ありがとう」と言っていただきました。ファンの方々のサポートがなければベスト8には進めていなかったと思います。2011年大会で不甲斐ない試合をしてしまった罪滅ぼしと恩返しができたかな、と感じて肩の荷が下りました。それを機にメンタル面も落ち着き、「ここで終わってもいい」という思いが少しずつ芽生えてきました。

──あらためてキャリアを振り返ると、ニュージーランドと縁のあるラグビー人生だったのではないでしょうか。

 最初にニュージーランドに留学した10代の時は楽しさもあったのですが、やはりレベルが高過ぎて「これはスーパー12(現スーパーラグビー・パシフィック)に行くのは正直厳しいな」と1回挫折しました。

──そこからトップリーグ、日本代表で経験を積み、初出場をつかみ取った2011年のラグビーW杯の舞台はそのニュージーランドでした。

 結果を残せず(日本代表は3敗1分けでプール戦敗退)、日本ラグビーのために誰かが世界に出て挑戦しないといけない、という思いになりました。まだスーパーラグビーのことは意識していませんでしたが、まずは(その下のカテゴリーにあたる)ニュージーランドの州代表チームに行って、日本人の名前を売ろうと考えていました。

 W杯の期間中に(三洋電機ワイルドナイツの元チームメイトで、のちにコーチと選手の間柄になるラグビー指導者、元ニュージーランド代表の)トニー・ブラウンがオタゴ(州代表)行きの話を持ってきてくれたのですが、当時は現実的ではなかったですね。行こうかな、くらいの感じで捉えていました。

 その後、3敗1分けで敗退してしまい、W杯という大会のすごさ、日本人の甘さを感じたので「これは本当に行かないといけない」と考え、オタゴへ行く意志を伝えさせてもらいました。

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