我々に託された平尾誠二の遺志。「2019」は成功させなければならない

  • 宮崎俊哉●取材・文 text by Miyazaki Toshiya
  • photo by AFLO

追悼・平尾誠二@後編

 1995年1月15日、国立競技場で行なわれた日本選手権――。神戸製鋼は大学チャンピオンの大東文化大を相手に15トライの猛攻で102-14と圧勝し、7連覇を達成した。

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平尾誠二は常に日本ラグビーの将来について考えていた平尾誠二は常に日本ラグビーの将来について考えていた だが、翌年の全国社会人大会・準々決勝。サントリーにノーサイド直前で同点のペナルティゴールを決められ、トライ差で準決勝進出ならず。平尾誠二は、このシーズン限りで第一線を退いた。

 あれは、現役引退を表明し、神戸製鋼で日本ラグビー界初のゼネラルマネージャー(GM)に就任した1997年2月のちょっと前だったろうか。私が趣味で「草ラグビーをしている」と告げると、平尾は笑いながらも、ちょっと寂しそうに言った。

「ええですねぇ、いつまでもラグビーができて。僕らはそうはいかんですわ。求められるラグビーができんようになったら、やめなあかんもん」

 この年、史上最年少で日本代表(ジャパン)監督に就任した平尾は、選手のとき以上に取材に応じ、練習や試合後に選手が引き上げても、自らスポークスマンに徹して記者たちの質問に丁寧に答えた。長野・菅平(すがだいら)合宿では、午後の練習に備えて選手たちが昼寝をしていても、平尾は眠い目をこすりながら個別取材も引き受けてくれた。

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