NBA伝説の名選手:チャウンシー・ビラップス 苦境を乗り越え、"真の勝者"となった不屈のポイントガード

  • 秋山裕之●文 text by Akiyama Hiroyuki

ビラップスは、プロ入り後6チーム目となるピストンズで勝者となった photo by Getty Imagesビラップスは、プロ入り後6チーム目となるピストンズで勝者となった photo by Getty Images

NBAレジェンズ連載23:チャウンシー・ビラップス

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第23回は、キャリア序盤の苦境を経て一流選手に上り詰めたチャウンシー・ビラップスを紹介する。

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【ドラフト3位指名後の5年間で5チームを渡り歩く】

 NBAのドラフトは、指名された選手たちにとってはキャリアが成功しようと失敗に終わろうとも、今後もずっとレコードブックに刻み込まれるほど、歴史的なイベントとなる。

 全体1位指名が最も栄えある位置づけではあるものの、全体3位指名もプレッシャーが重くのしかかる一流としての評価だ。過去には1984年のマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)、2003年のカーメロ・アンソニー(元デンバー・ナゲッツほか)といった大物が名を連ねている。

 今回紹介するチャウンシー・ビラップスは、1997年のドラフト全体3位でボストン・セルティックスから指名後、数多くのトレードを経験しながら険しい道のりを這い上がり、2024年にバスケットボール殿堂入りを果たした選手である。

 1976年9月25日。コロラド州デンバーで生まれた男は、幼少期にバスケットボールや水泳、チェッカー(ボードゲーム)にドミノといったゲームをこなし、地元パークヒルでコートを支配して名の知れた選手になっていく。

 同州のジョージ・ワシントン高校へ入学すると、年間最優秀選手に3度も選ばれ、チームを2度の州タイトルへと導いた。もっとも、9年生(日本の中学3年生)当時のビラップスが掲げていたゴールは、高校でいいキャリアを送り、カレッジへ進学することだった。

「短いスパンに区切ってゴールを設定してきた」と言うビラップスは、学生時代から地に足をつけて人生を歩んできた。また、プロキャリアを終えて「最も重要なことは、私がこの夢を追い求めるポジションへ導いてくれた両親(父レイと母フェイ)の献身です」と話したように、両親や家族との絆を大切にしてきた。

 コロラド大学では1年次からリーダー兼トップスコアラーとなり、2年次には同大の28年ぶりのNCAAトーナメント(全米大学選手権)出場の立役者に。その2年次に平均19.1得点、4.8アシスト、2.1スティールを残し、1997年のNBAドラフトへアーリーエントリーする。

 高順位で名門セルティックス入りすると開幕3戦目から先発ポイントガード(PG)で起用され、順調なキャリアを歩み始めたと思われた。しかし、1年目のシーズン途中でトロント・ラプターズへトレードされてしまう。

「一生懸命やっていた。でも、準備ができていなかった。ヘッドコーチ(リック・ピティーノ)から嫌われていたのではなく、自分の準備が万全ではなかったんだ。大きな期待を寄せられていたけど、それに応えられなかった」

 そんなビラップスに、さらなる試練が襲い掛かる。翌シーズンも1999年1月にはデンバー・ナゲッツ、翌2000年2月にはオーランド・マジック(ケガのため出場はなし)へトレードされ、同年夏にFA(フリーエージェント)でミネソタ・ティンバーウルブズへ移籍することになる。

 その間、ビラップスはトレーナーと二人三脚で課題とされたボールハンドリングやプレーメーキング、ショットまで持ち込むまでのスキルを磨き、移籍先のウルブズの同僚やフリップ・サウンダースHC(ヘッドコーチ)のサポートでキャリアが徐々に好転していく。

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著者プロフィール

  • 秋山裕之

    秋山裕之 (あきやま・ひろゆき)

    フリーランスライター。東京都出身。NBA好きが高じて飲食業界から出版業界へ転職。その後バスケットボール雑誌の編集を経てフリーランスに転身し、現在は主にNBAのライターとして『バスケットボールキング』、『THE DIGEST』、『ダンクシュート』、『月刊バスケットボール』などへ寄稿している。

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