NBA伝説の名選手:コービー・ブライアント「ベストプレーヤーをストイックに追求し続けた究極のプロフェッショナル」 (3ページ目)
【自己中心という批判を覆したキャリア終盤】
その後、コービーは2年連続で得点王になり、リーグ最高のスコアラーの称号を手に入れた。だが、プレーオフでチームは2年連続1回戦敗退に終わるなど優勝にはほど遠く、2007年夏にはフロントへトレードを要求するほど、勝てない状況に苛立ちを募らせていった。
ところが、トレード要求を撤回して迎えた2007-08シーズンに転機が訪れる。シーズン途中に先発陣を放出せずに即戦力ビッグマンのパウ・ガソルをロスターに加えたレイカーズは、2008年こそファイナルで敗れたものの、翌2009、2010年に見事2連覇を達成した。コービーは自身5度目のチャンピオンに輝き、2年連続でファイナルMVPを受賞した。
その後コービーはアキレス腱断裂や左ヒザ、右肩負傷などケガにも悩まされてきた。それでも、バスケットボールへの愛情が変わることはなく、2016年4月13日に迎えたラストゲームで、ジャズ相手に圧巻の60得点を奪って勝利へ導き、コートを後にした。
NBAでベストプレーヤーになるべく、練習に多大な時間を費やし、試合に向けた準備やストレッチなども入念にこなしてきたコービー。その一方で、練習中であろうと激しさを持ち込みチームメイトたちへ容赦なく当たり、チーム内や選手間の仲が険悪になることもあった。それに目立ちたがり屋と見られ、自己中心的な選手というレッテルを貼られて嫌悪感を抱く選手やファンもいたことは事実である。
そうしたなか、コービーが「最高の選手になりたい」という自らのゴールを貫き、批判を称賛に変えてリスペクトされる存在へ昇華していったことは、見逃せない。NBA のGOAT(Greatest Of All Time=史上最高の選手)と評されるマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)に憧れ、対抗意識を燃やして果敢に挑んでいったコービーは、のちにジョーダンの"可愛い弟分"となり、親しい友人になっていった。
キャリア20シーズンで、コービーはオールスターに18度、オールNBAチームに15度、オールディフェンシブチームに12度選ばれ、リーグの75周年記念チームにも選出。フィールドゴール失敗数1万4481本、試合時間残り5分で5点差以内を指すクラッチタイムの通算2369得点はいずれも歴代1位で現役を終え、オールディフェンシブ1stチーム選出9回はジョーダンらと並んで歴代1位タイ、2006年1月22日にはいずれもNBA歴代2位の1試合81得点、ハーフ(後半)だけで55得点を叩き出した。
2020年1月26日、コービーはヘリコプターの事故により、41歳の若さで他界。世界中のファン、関係者が早すぎる別れに涙したが、約4年半経ったいまも、コービーの映像はX(旧Twitter)やYouTubeなどソーシャルメディアで定期的に流れ、彼の持つ不屈の精神"マンバ・メンタリティ"はバスケットボール界で健在である。
「私には自分のことをみんなに覚えておいてもらうという責任がある。正しいことをしていれば、その人のゲームはずっと生き続けていく。だからこそ、コートにすべてを残すんだ」
2017年にコービー自身が口にしていたこの言葉どおり、コービーは私たち全員の心のなかで生き続けていく。
【Profile】コービー・ブライアント(Kobe Bryant)/1978年8月23日、アメリカ・ペンシルベニア州生まれ。ローワーメリオン高出身。1996年NBAドラフト1巡目13位指名(シャーロット・ホーネッツ)。
●NBA所属歴:ロサンゼルス・レイカーズ(1996-97〜2015-16)
●NBA王座:5回(2000、01、02、09、10)/シーズンMVP:1回(2008)/ファイナルMVP:2回(2009、10)/オールNBAファーストチーム:11回(2002〜04、06〜13)/オールスターMVP:4回(2002、07、09、11)
●主なスタッツリーダー:得点王2回(2006、07)
●アメリカ五輪代表歴:2008年北京五輪(優勝)、2012年ロンドン五輪(優勝)
*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)
著者プロフィール
秋山裕之 (あきやま・ひろゆき)
フリーランスライター。東京都出身。NBA好きが高じて飲食業界から出版業界へ転職。その後バスケットボール雑誌の編集を経てフリーランスに転身し、現在は主にNBAのライターとして『バスケットボールキング』、『THE DIGEST』、『ダンクシュート』、『月刊バスケットボール』などへ寄稿している。
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