ジョシュ・ホーキンソンが日本で成功できた要因とは? 修士の学位を持つ勉強家の努力 (3ページ目)

  • 永塚和志●取材・文 text by Kaz Nagatsuka

 なぜなら、バスケットボールをいつまでもプレーしていられるわけではないし、ケガなどでいつ選手生命が終わるかわからないから。だから、バスケットボール選手を終えても生きていけるようにね。そのことは母からよく言われていたかな」

── 修士課程での専攻は「データ分析」だそうですね。

「そのとおり。卒業前のプロジェクトでは『ピッチトンネル』をテーマに、メジャーリーグのピッチングデータについて分析したんだ。ピッチャーの投球コースが一緒だったとしても、腕の角度を変えたらどうなるかといったことを、メジャーリーグからもデータをもらったりして取り組んでいた。

 僕はもちろんバスケットボールのことをよくわかっているし、ほかのスポーツでもデータ分析は盛んに行なわれているから、アスリートとしての知識と分析分野の知識をバランスよく持っていることはいいことだと思っている。仮にバスケットボール選手以外のキャリアを歩んでいたとしても、それが役に立つと感じていたしね」

── それらの知識を備えて日本にやってきましたが、当時を振り返ると?

「日本に来て2カ月くらいはホームシックで、アメリカから持ってきた荷物の荷ほどきもできなかった。その後、父が日本に来てくれたんだけど、僕の荷物はまだスーツケースの中で、自宅に閉じこもってゲームをしたりアメリカの友達と話したりと、ずっと部屋に引きこもっていた。

 それを見た父が『ジョシュ、これはよくない。もっと外に出て、新しいことに挑戦しながら、日本の文化を学ばなければいけない』と。その助言に従ってみたら、だんだんとつらい気持ちも和らいでいって、物事が好転し始めたんだ。

 名古屋では僕が『日本のお父さん』と呼べる人がふたりいて、彼らが日本での食生活や文化に慣れていくのを助けてくれた。それはとても幸運だったと感じているよ。名古屋に住むことは本当に好きだったし、そこで生涯の友人と呼べるような人たちと出会うこともできた」

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