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奨学金制度でF1を目指した日本人ドライバー。塚越広大の生き方 (2ページ目)

  • 川原田剛●取材・文 text by Kawarada Tsuyoshi
  • 能登直●撮影 photo by Noto Sunao(a presto)

――レーシングドライバーになりたいと思ったのは何歳ぐらいだったのですか?

「カートでクルマを運転したあとは、いつか世界で一番速いクルマを運転してみたいと思い始めました。それがF1マシンでした。F1マシンに乗るためにはF1ドライバーにならなくてなりませんので、F1ドライバーになるにはどうしたらいいのかと考え始めました。

 それが小学校6年生や中学1年生の時です。その頃にはレーシングカートのレースを始めていましたので、F1ドライバーは狭き門で、簡単な道のりではないことは何となくわかり始めていました。でも当時の自分がどうやってステップアップし、F1までたどり着けばいいのかわかりませんでしたので、父の協力を仰いで、具体的にプランを立てて、その実現に向けて動き始めました」

子ども用カートでレースをしていたころ(写真提供/塚越広大)子ども用カートでレースをしていたころ(写真提供/塚越広大)――当時はどのようにしてF1までステップアップする計画だったのですか?

「モータースポーツは非常にお金がかかる競技です。レーシングカートを始めた当初からたくさんの方のおかげで活動していましたが、一般の家庭では限界があります。そこで当時、レーシングドライバー育成スクールのスカラシップ(奨学金)を取って上のカテゴリーを目指す......ということを考えました。

 スカラシップを勝ち取り続けることは、そんなに簡単な道のりではありませんでした。それでもレーシングカートのシリーズでチャンピオンになりスカラシップを獲得し、鈴鹿サーキットが主催するレーシングスクールに入門することができました」

――佐藤琢磨選手など、数多くのレーシングドライバーを輩出する鈴鹿サーキットレーシングスクールは当時、受講料が年間700万円以上かかると話題になりました。

「僕の頃は年間800万円ほどと言われていましたが、スカラシップを獲得して入学することができました。1年間のレーシングスクールも首席で卒業することができて、再びスカラシップを獲得して、ホンダが運営していた入門用のフォーミュラカーレース、フォーミュラ・ドリームに参戦しました。

 そこでもチャンピンとなり、ホンダ系のチームから全日本F3選手権に参戦することができました。大変な時期もありましたが、そこまではほぼプランどおりにステップアップですることができました」

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