サッカー日本代表監督の有力候補だったペジェグリーニ 多国籍軍を操る知性派のマネジメント (2ページ目)
【国外のチームで本領を発揮】
思考は極めてロジカルだ。
「だからこそ、チームが勝つためにはテクニックを持った選手がいることが欠かせない。それだけ、試合を支配できるからね。当然、"1点叩き込んだら、人海戦術でブロックを作って、そのまま試合をクローズする"みたいな勝ち方を私は志向しない。いや、もっと言えばできないんだよ。それは"得点をすることがサッカー"という本質に逆らっているからね。2点目を奪いに行くのが、サッカーにおける勝利の原則なんだ」
真剣なプロサッカー人生を通じて編み出された論理だからこそ、強い統率力につながるのだろう。
現役時代のペジェグリーニは14シーズン、センターバックとしてプレーしている。チリの名門、ウニベルシダ・デ・チレひと筋で451試合に出場した。チリ代表として1試合に出場している彼は、プロ選手として十分な能力は持っていたが、世界的には無名だった。
現役引退を決意したのは、1987年のカップ戦で17歳のFWに空中戦で負けて衰えを感じたからだという。その17歳の少年はイバン・サモラーノという名で、空中戦で無敵を誇り、やがてレアル・マドリードなどで得点を量産する同国伝説のストライカーになった。ペジェグリーニも「それほどの選手になると知っていれば、私はもう2年は現役を続けていた」と冗談交じりに振り返っている。
監督としては当初、苦労した。1988年に古巣、ウニベルシダ・デ・チレを率いたが、監督交代やクラブ運営の混乱で2部降格。その後はチリ代表監督のコーチ、チリU-20監督、CDパレスティーノ、CDオヒギンスなど国内チームを渡り歩くも、特筆すべき結果は残していない。ウニベルシダ・カトリカを2シーズン指揮したが、常勝クラブを国内リーグ王者に導けなかった。
ペジェグリーニが本領を発揮したのは、1999年に国境を越えてからだ。
エクアドルの強豪LDUキトを率いて国内リーグを制覇し、リベルタドーレス杯でもベスト8に進出し、敗れたアルゼンチンのリーベルプレートとの激戦は語り草となった。これで采配が注目され、2001年にはアルゼンチンのサン・ロレンソの監督に就任し、国内リーグでは13連勝で前期リーグを制した。2002年にはリーベルプレートでリーグを制し、そこからアンドレス・ダレッサンドロ、マルティン・デミチェリスなどが飛躍していった。
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