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中田英寿がセリエAにやってきた! またもワールドカップ出場を逃したイタリアサッカーの黄金期回想録 (3ページ目)

  • 利根川晶子●文 text by Akiko Tonegawa

【中田の登場は黄金時代の終盤】

 欧州のカップ戦もイタリア勢が支配し、たとえば1988-89年から1997-98年までの10年間で見てみると、チャンピオンズリーグ(チャンピオンズカップを含む)決勝進出を決めた20チーム中9チームがイタリアのクラブだった。それもユベントスやミラン、インテルだけでなく、サンプドリアなども決勝に残っているし、パルマやラツィオのような中堅クラブも十分に欧州のタイトルを狙えた。

 ちなみに続く10シーズン、チャンピオンズリーグで決勝に進出したイタリアのチームは、4チームにすぎない。いまから思えば、21世紀に入る頃、セリエAの衰退は始まっていたのかもしれない。中田がペルージャにやってきたのは、黄金時代の終盤ということになる。

 その後、日本のサッカーが成長するにつれて、多くの日本人選手がイタリアでプレーするようになった。だが当初、日本人選手は、戦力というよりジャパンマネーを呼び込む"金のなる木"と思われていたのも確かだ。

 だから、ペルージャの名物会長ルチアーノ・ガウッチが、その年のフランスワールドカップに初出場した中田を70億リラ(当時のレートで約6億円)で獲得した時は、多くの人が眉をひそめた。専門家たちは、日本人選手が世界屈指の強豪リーグで活躍するなどあり得ないと考えていたのだ。

 確かに中田はすぐさま収益を生み出した。デビュー戦を観戦するために5000人もの日本人ファンがペルージャに駆けつけた。小さなペルージャの町が日本人だらけになり、「渋谷のようだった」と、イタリア人記者は笑う。

 ある日本の旅行会社は、試合のためにペルージャへの弾丸ツアーを企画し、イタリア人を驚かせた。ペルージャの関係者によると、1998-99シーズン、1試合の日本人観客数は平均約3000人だったという。人口約16万人のペルージャにとっては異常な事態だった。

 オーナーであるガウッチ家は「ガレックス」というスポーツウェアの会社も持っていて、クラブのユニフォームも作っていた。彼らは背番号7の中田の名前入りのペルージャのシャツを7万枚売ったというが、売れ先のほとんどは日本だったという。

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