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【欧州サッカー】デル・ピエロは降格するユベントスを見捨てなかった ファーガソンの誘いにも「申し訳ありません」 (2ページ目)

  • 粕谷秀樹●取材・文 text by Kasuya Hideki

【ロベルト・バッジョの後継者】

 当然ながら、ビッグクラブがその存在を見逃すはずはない。1993年、セリエBで輝きを放った青年はパドヴァから巣立ち、誰もが憧れるユベントスへと移籍する。

 当時カルチョ・イタリアーノ屈指の名門は、ロベルト・バッジョの後継者を探していた。芸術的なプレーで多くの人を魅了した唯一無二のスーパースターも、度重なる故障には抗(あらが)えなかった。全盛期の彼を知る者にとっては、耐えがたいパフォーマンスである。

 世代交代を訴えるメディアも少なくなかった。1994年3月のパルマ戦でデル・ピエロがハットトリックを決めると、「イタリア代表の将来を担う男」「新時代のエース」と19歳の若者を称賛した。

 続く1994-95シーズンは世代交代が加速する。1994年ワールドカップ・アメリカ大会の疲労を引きずったバッジョはユベントスの中軸になれず、デル・ピエロが攻撃を牽引する。そして1994年12月のフィオレンティーナ戦で、のちに語り継がれる衝撃のゴールが生まれた。

 センターライン近くから飛んできたロングボールに対して誰よりも早く反応し、ふたりのディフェンダーに囲まれながら背中越しのボールをダイレクトボレー。右足から放たれた一撃は、ユベンティーノの夢と希望を乗せてゴールに吸い込まれていった。

 背後から来たボールは扱い方が難しい。落下地点が推測しづらいため、真下を叩いて上に外したり、空振りしたりするケースが多々ある。しかし、デル・ピエロは瞬時にしてミートポイントを捉えた。

 この一撃で、ユベントスの勢力分布図に大きな変化が生じる。エースの座にはデル・ピエロが収まり、シーズン終了後にバッジョはミランへと去っていった。時の流れとはいえ、世代交代は残酷ですらある。

 しかし、ユベントスに19シーズンも所属するとは想像を超えていた。705試合出場・290得点はともにクラブ最多記録。セリエAを6回、チャンピオンズリーグ、トヨタカップ(現クラブワールドカップ)、コッパ・イタリアも栄光に浴している。デル・ピエロこそが「クラブの象徴」だった。

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