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史上最高のサッカー選手は誰か ベテラン記者が振り返る「神の子」マラドーナの凄さ (2ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【10代で世界一のチームを仕切るプレー】

 僕が初めてマラドーナという名前を認識したのは、1978年アルゼンチンW杯観戦のためにブエノスアイレスに滞在していた時だった。

「アルゼンチンに、10代の凄い選手が現われた」という情報は日本にいる間にも聞いていたが、詳しいことは知らなかった。日本では、まだサッカー人気は高まっていなかったから報道も少なかったが、おそらく欧州でもマラドーナのことを詳しく知っている人はそれほど多くなかったのではないか。

 今だったら、マラドーナのような選手が現われたら、世界中で動画が共有され、子どものうちから欧州のビッグクラブが獲得競争を始めるだろう。だが、半世紀前の南米大陸は日本からはもちろん、欧州からも遠い存在だった。第一、欧州のほとんどの国では外国人選手枠が厳密に定められていた時代だ。

 ブエノスアイレス滞在中はアントニオ太田さんという日系人のお宅に世話になったのだが、早速話題になったのが「マラドーナ」という名の少年の話だった。アルゼンチンの人が「彼は特別」と言うのだから、どんなプレーをするのか見てみたかった。

 だが、アルゼンチン代表のセサール・ルイス・メノッティ監督は、W杯開幕前に、最後の最後でマラドーナを代表から外してしまった。「経験不足だったから」とも、「メノッティがマラドーナの才能に嫉妬したから」とも言われたが、メノッティ監督はスーパースターに頼るのではなく、クレバーな選手を集めて集団的に戦うことを目指していたから、マラドーナは不要だったのかもしれない。

 残念ながら、アルゼンチン滞在中にはテレビで少年時代のプレーを見ただけで、マラドーナのプレーを見ることはできなかったが、幸いにも、僕は翌1979年にはマラドーナを生で見ることができた。

 ワールドユース大会(現U-20W杯)の第2回大会が日本で開催され、アルゼンチンはメノッティ監督が率いる最強チームで参戦。「10番」を付けて、マラドーナが大宮サッカー場(現NACK5スタジアム)や旧・国立競技場でプレーした。そして、マラドーナとラモン・ディアスなどの活躍で、アルゼンチンは6戦全勝と圧倒的な強さで優勝した。

 マラドーナはこの時、実はもうフル代表でもレギュラーになっていた。

 1979年の夏にアルゼンチンは欧州に遠征。マラドーナは、中心選手として活躍していた。

 当時は、そんな試合が日本では放映されることはなかった。しかし、僕はマラドーナがどんなプレーをしたのかどうしても見たかったので、欧州の業者からビデオテープ(VHS)を取り寄せた。

 スコットランド戦では、マラドーナがフル代表で最初のゴールを決めた。

 試合は全体としてアルゼンチンが支配しており、3対1で勝利したのだが、もちろん、アルゼンチンがリズムを失う時間もある。相手に支配されると、マラドーナはスルスルとポジションを下げてプレーし始めた。中盤の深い位置で周囲と短いパスをやり取りすることによってボール保持率を高め、リズムを取り戻すと、マラドーナは再び前方のポジションに移って、攻撃のタクトを振るい始める。

 W杯で優勝したアルゼンチン代表チームを、まだ19歳のマラドーナが仕切っていた。

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