サッカーワールドカップで東西ドイツが唯一の対戦 51年前に現地観戦の記者の回想 (2ページ目)
【西ドイツと東ドイツが対戦することに】
五輪種目で大躍進した東ドイツだったが、サッカーの強化は進まず、W杯本大会に出場できたのは皮肉にも西ドイツで開催された1974年大会だけだった。
皮肉は、さらにいくつも重なった。
東ドイツは西ベルリンが西ドイツの一州だとは認めていなかった。そこで、西ドイツ政府は西ベルリンとの一体性を国際的にアピールするため、同市でW杯を開催しようとした。当然、東ドイツはそれに反対した。
ところが、W杯本大会組分け抽選の結果、東ドイツは西ドイツと同じ第1組に入り、東ドイツ代表は西ベルリンのオリンピアシュタディオンで試合をすることになってしまった。しかも、相手はこともあろうに南米代表のチリだった。
チリでは、民主的な自由選挙によって選ばれたアジェンデ大統領の社会主義政権が銅鉱山の国有化を進めた。そして、これに反対する米国が絡んだ軍事クーデターが起こり、大統領は官邸内で応戦したが自殺。権力を握った軍事政権は反対派の市民を首都サンチャゴの国立競技場に収容し、そこで数千人が虐殺されたとも言われている。
この年のW杯南米予選でチリは3位となり、プレーオフで欧州代表と戦うことになったが、対戦相手はなんとアジェンデ政権の後ろ盾となっていたソ連だったのだ。ソ連は、多くの市民が虐殺された"血塗られた"スタジアムではなく中立地での開催を求めたが、FIFAは会場の変更を認めなかったためソ連は対戦を拒否。それによってチリが本大会出場を決めたのだ。
東ドイツが東ベルリンの地で、そのチリと対戦する......。皮肉な偶然が幾重にも重なっていた。
それでも、東ドイツはボイコットすることなく、チリとの試合に臨んで引き分け。2試合を終えた時点で西ドイツに次ぐ2位となり、ハンブルクでの最終戦ですでに2次リーグ進出を決めている西ドイツと対戦することになったのだ。
2 / 4