パリオリンピック男女サッカー決勝の舞台「パルク・デ・プランス」名前の由来は王侯貴族の庭~欧州スタジアムガイド (2ページ目)

  • 斉藤健仁●取材・文 text by Saito Kenji

 パルク(Parc)は「公園、庭」という意で、「Princes(プランス)」は日本語に訳すと「王子たち」くらいの意で、通常、スタジアムは「ル・パルク(Le Parc)」という名で呼ばれている。パリ16区は、1830年の7月革命後のルイ・フィリップ王がティエールの城壁を作った場所だ。現在、その城塞が建っている西側、ブローニュの森の外れにある大きな公園は当時の王侯貴族が余暇を楽しんでいたため「パルク・デ・プランス」という名称がついた。スタジアムは、この名前をそのまま使用したというわけだ。
 
 スタジアムが建つ前、この区には科学研究所があった。パリ市が人間と動物の生態研究を行うために生理学施設を作り、筋肉のメカニズムに関する実験を行なうために円形競技場を創設し、人や動物の筋肉の動きなどを観察していたという。その後、この円形競技場は楕円形のスタジアムで傾斜のあるカーブを持つ自転車競技場に作り替えられ、1903年から1967年まではツール・ド・フランスのゴールにもなった。1932年にはスポーツとしての自転車競技の人気が上がったために改修され、4万人の観客を収容するフットボールもプレー可能な楕円型のスタジアムとなった。
 
 しかし、第2次世界大戦後、スタジアムの老朽化や移転計画の頓挫、パリの外環状道路の建設などの理由により改築を余儀なくされた。1972年には自転車競技場と陸上競技場の用途はなくなり、サッカーとラグビーなどを行なうためのフットボール場として再建された。建築家ロジャ・タイリベールによって設計され、収容人数は48527人となり、座席の上に屋根が付けられた。1973年からパリ・サンジェルマンのホームスタジアムとしても使用されるようになった。
 
  1984年に行われたEURO(欧州選手権)の決勝もこのスタジアムで開催され、地元フランス代表がスペイン代表と対戦し、レジェンドのミシェル・プラティニがFKを決めて2―0と勝利し優勝を飾っている。1998年のフランスワールドカップ時も会場のひとつとなった。
 

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