ジダンの特異性とトルシエジャパン惨敗。
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スタッド・ドゥ・フランス(サンドニ)
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パリの主要駅のひとつである北駅から、RERという停車駅の少ない急行のような鉄道でひとつ目。地上から20メートルほど高い位置に設置されたスタジアム駅(ラ・プレーヌ・スタッド・ドゥ・フランス)のプラットホームに到着すると、スタッド・ドゥ・フランスの外観がハッキリと目に飛び込んでくる。
ロンドンのウェンブリー・パーク駅に降り立った瞬間と似ている。ウェンブリーはそこから500~600メートル歩くと到着するが、スタッド・ドゥ・フランスはそれより少し遠い、1キロ弱の道のりだ。スタジアムを仰ぎ見ながら歩を進めると、観戦気分はいやが上にも盛り上がる。
最初に訪れたのはフランス対スペイン。1998年1月28日に行なわれた、こけら落としのイベントだった。
日本が初出場した1998年フランスW杯を前に建設されたスタッド・ドゥ・フランス パリの冬は寒い。緯度は樺太とほぼ同じだ。試合開始時刻である20時50分の気温は、氷点下の世界だった。隣で観戦していた痩せ型のライターは、居ても立ってもいられないという感じで、試合中、身体をずっと揺らしていた。同行カメラマンに至っては発熱。ホテルで寝込んでしまった。筆者の肉厚な小太り体型の利点を身をもって実感した一戦だった。
当時のフランスは、スペインがそうであったように、代表チームを熱烈に応援する習慣がなかった。この半年前にフランス各地で行なわれたプレW杯(トルノワ・ドゥ・フランス)の際には、ブラジル戦でもスタンドは埋まらなかった。15分に一度程度、湧き起こる「アレー・アレー・ブルー」の合唱にしても、威圧感に欠けることおびただしかった。
1998年6月10日に開幕したフランスW杯期間中も、当初は盛り上がっていなかった。たとえば、筆者が1カ月間投宿したパリのプチホテルのご主人は、フランス戦当日になると、必ず「今日は負ける」と言い出す。勝てば勝ったで「退屈な試合だった」とか「相手が弱すぎた」とか、皮肉的な言葉を吐いた。理由を尋ねれば「フランス人だからさ」と言って笑った。
パリっ子の様子が変わってきたのは準々決勝(イタリア戦)あたりからだ。フランスが勝利すると、夜の街は上気した若者たちで溢れるようになった。ホテルのご主人はそれでも態度を頑なに変えなかったが、ブラジルと戦うことになった決勝戦の当日だけは違った。これからスタッド・ドゥ・フランスに向かおうとする筆者に、懇願するような目でこう言った。
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