歯科医だったコロンビアの名将。30年前に先進的サッカーができた謎 (4ページ目)

  • 西部謙司●文 text by Nishibe Kenji
  • photo by AFLO

 翌87年にアトレティコ・ナシオナルの監督に就任。そこからアトレティコ・ナシオナルとコロンビア代表の快進撃が始まっている。マツラナの念願はコロンビア人のためのサッカーを取り戻すこと。それが一気に実現したのが監督就任からの3年間だった。

 コロンビアは南米の弱小国だった。62年チリ大会に1回出場しただけ。グループリーグで敗退しているが、その時にソビエト連邦と引き分けたのが唯一の誇りだった。ただ、50年代には非常に華やかな時代があり、マツラナが再興したかったのはその一時期のコロンビアサッカーである。

 1949-54年の5シーズン、コロンビアリーグは「エル・ドラド」(黄金郷)と呼ばれていた。FIFA未公認の海賊リーグ。それゆえに高額のサラリーに惹かれて世界中からスター選手が集まっていた。

 アルゼンチンからは50年代のスーパースター、アルフレッド・ディ・ステファノや元祖「偽9番」のアドルフォ・ペデルネーラ。マンチェスター・ユナイテッドで「フェイマス・ファイブ」を形成したチャーリー・ミッテン、50年W杯で優勝したウルグアイ代表メンバーなど、オールスターリーグだったのだ。そして、外国人スターに負けないコロンビア人の名手たちも活躍していたという。

 エル・ドラドが短期間で崩壊すると、その後のコロンビアはアルゼンチンの影響下に置かれた。アルゼンチンの高名な監督が指導し、プレースタイルからサッカー用語、応援歌に至るまでアルゼンチン式。ただ、厳重なマンマークとカウンターのスタイルはコロンビア人が本来持っている資質とは違うのではないか――それがマツラナの疑問だった。

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