検索

【Jリーグ】ジョルジーニョは立ち止まらない人だった 受け継がれる「アントラーズの遺伝子」 (2ページ目)

  • 戸塚 啓●取材・文 text by Kei Totsuka

【サイドバックからボランチへ】

「日本へやってきてすぐに、ジーコが言っていたことがわかりました。日本人選手はJリーグにいることで、アントラーズにいることで、満足しているような感じがしたのです。だから僕は言いました。『勝つために試合をする。優勝するために戦う。そうでなければ何の意味もないよ』と」

 加入1年目の1995年はケガに見舞われ、リーグ戦52試合のうち20試合以上を欠場した。彼だけでなくチーム全体としてケガ人が多く、前年の年間3位から7位へ後退した。

 1996年はシーズンを通して稼働した。ポジションはブラジル代表で馴染みの右サイドバックではなく、1995年にまかされた右サイドMFでもなく、ドイスボランチの一角である。「自分のよさはボールにたくさん触ること。ボランチでチームの勝利に貢献したい」と、指揮官ジョアン・カルロスを納得させた。

 右足のキックは高精度である。1本のパスで局面を変えられる。ミドルレンジからのシュートは威力十分だ。本来は世界最高峰のサイドバックだから、ピンポイントクロスで決定機を演出できるのは言うまでもない。

 守備の局面でも頼りになった。今でいうデュエルに強い。「今どこに立つべきなのか」というジャッジが適切で、彼自身がボールを奪わなくても相手の攻撃を遅らせる、味方選手にパスカットさせる、といったことができていた。戦況を読む眼が鋭かったのだろう。

 ボランチのコンビを組む本田泰人との役割分担は完璧で、サイドバックのスムーズな攻め上がりを促した。1996年のJリーグでは、ブラジルの同胞ドゥンガ(ジュビロ磐田)とセザール・サンパイオ(横浜フリューゲルス)、サンパイオとコンビを組んだ山口素弘、さらにはフランス人のデュリックス(名古屋グランパスエイト)やアルゼンチン人のサパタ(横浜マリノス)らがボランチとして存在感を発揮した。そうした選手たちと比較しても、鹿島をリーグ優勝へ導いたジョルジーニョは際立っていた。

2 / 4

キーワード

このページのトップに戻る