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戦火のウクライナでプレーしたジャン・クルード「人生でもっともクレイジーな経験だった」 (3ページ目)

  • 舩木渉●取材・文 text by Funaki Wataru

【ウクライナでは試合中に空襲警報が】

 ウクライナがロシアと戦争状態にあることは、もちろんわかっていた。一方でジャンにとっては「ヨーロッパでプレーする」という夢を叶え、ステップアップを狙う大きなチャンスでもあった。ところが現地で待っていたのは、想定していたよりもはるかに過酷な環境だった。

「安心してプレーすることなんてできなかった。ピッチに立つたびにいろいろなことを考えてしまった。時にはトレーニング中でも考え続け、眠ろうとしても考えごとが頭の中をぐるぐると回って眠れないこともあった。家族は僕のことをすごく心配していた。今だから『いい経験だった』と言えるけれど、当時はすごく怖かったよ」

 ジャンはウクライナに渡って最初の週の試合前に起きた「最も恐ろしい体験」のことを、今でも鮮明に憶えている。

「ゾリャに加入した直後のことだ。僕たちがアウェーゲームのために遠征した街は、ウクライナとロシアの国境に近かった。僕がホテルの部屋で家族と電話で話していたら突然、空襲警報が鳴り始め、全員下の階へ避難するように指示された。

 その通りに避難すると、そこには安全に隠れるためのシェルターがあったんだけれど、電波がなくて家族と連絡を取れなくなってしまった。結局、その状態のままそこで6時間過ごした。自分にとっては移籍して最初の試合だったから、本当に怖かった。なぜ自分がこんな状況に置かれているのか不思議に思ったくらいだ。

 僕は避難する時にパナマ人のチームメイトで、仲のよかったエドゥアルド・ゲレーロを大声で呼びにいったんだけれど、すでにウクライナで半年プレーしていた彼は『わざわざ呼びにこないでくれ。目が覚めてお前を見るよりも、寝ているまま死んだほうがマシだ』と冗談を言っていた。彼にとっては日常になっていたのかもしれないけれど、僕にとってはウクライナに来て初めての出来事だから、人生で最もクレイジーな体験だった」

 ウクライナでは試合中に空襲警報が鳴ることも珍しくなく、試合終了直前に室内へ避難して1時間くらい待機したのちに再開になったこともあったという。

 ゾリャが本拠地を置くルハンシク州はロシアに占領されており、クラブは首都キーウに仮の拠点を設けて活動していた。選手たちは全員が1棟のアパートで共同生活を送っていた。近くに家族が住んでいれば、練習後に会いにいくことも可能だが、トーゴ出身のジャンはそうもいかない。

 命の危険と隣り合わせの日々は、肉体的にも精神的にも過酷なもので、リーグ戦11試合に出場したジャンは1年でウクライナから去る決断を下した。そして、次にたどり着いたのは未知の国、日本だった。

(つづく)

第3回 >>> 迷いなくJリーグ入りを決意したジャン・クルード 未知の横浜で今やチームの人気者に

Jean Claude ジャン・クルード
2003年12月14日生まれ、トーゴ・ロメ出身。14歳で出場したU-17アフリカ・ネーションズカップで注目され、UAEのアル・ナスルのユースに引き抜かれ、そこでプロに。帰化を断ったことでファーストチームに居場所を失い、2023年9月からウクライナのゾリャ・ルハンシクへ期限付き移籍。翌2024年7月に横浜F・マリノスに完全移籍で加入し、驚異的なスピードや鋭い寄せで中盤を引き締めている。

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