Jリーグ史上初のトーゴ人選手、ジャン・クルードのタフな少年時代「サッカーで生きていく未来なんて...」 (3ページ目)
【「学校に通う時間はない。サッカーに専念したい」】
「それまでは、サッカーで生きていく未来があるなんて考えたこともなかった。周囲の大人からのサポートはほとんどなく、自分で自分を励ましながらがんばるしかなかったから。でもニジェールから帰った時に、心からサッカーのキャリアに集中したいと思った。それで家族に『もう学校に通っている時間はない。サッカーに専念したい』と伝えたんだ」
年上の選手もいるU-17代表に14歳で選ばれていたジャンの才能には、注目が集まった。U-17アフリカ選手権予選の後、スカウトから声をかけられたジャンは、家族のルーツもある隣国のガーナに渡って現地のアカデミーで約8カ月間過ごした。
この頃、もうひとつ大きなチャンスが舞い込んでいた。ジャンは「実はイタリアに行けるかもしれなかったんだ」と明かす。ヨーロッパでのプレーは夢のひとつでもあったが、しかし......。
「イタリアへ渡る船に乗る予定だったけれど、そのためにはガーナのパスポートを取得するのが条件になっていた。もしパスポートを手に入れられれば、将来ガーナ代表になることも可能だった。でも、家族がガーナ人になることには反対したので、ヨーロッパ行きは断念せざるを得なかった」
トーゴに戻って燻っていた潜在能力の塊には、すぐ別の国へ渡るチャンスが提示された。それがアラブ首長国連邦(UAE)だった。ジャンは続ける。
「もともとは別の選手が行くはずだったけれど、その選手が大きなケガをしてサッカーをやめてしまった。すると調子がよかった僕が代わりに選ばれ、UAEへ行くことになった」
16歳になる年にジャンといとこのイーブスは、UAE最大の都市ドバイへ飛んだ。ところが、待っていたのは苦難の連続だった。
「約束されていたことと現実がまったく違った」とジャンは振り返る。「何かを成し遂げるには誰かを頼ってはいけない」と懸命にもがいたが、イーブスはひどく落ち込んだという。
それでもふたりは力を合わせて難局を乗り越え、自分たちの手で本物のチャンスを手繰り寄せた。
「ドバイには知り合いなんてひとりもいなかったから、本当に苦労したよ。最初から契約するクラブが決まっていたわけではなく、うまい話をチラつかされてドバイへ行くことになった。でも、僕といとこはあきらめずに自分たちを信じて努力を続けたんだ。
僕はあるクラブのトライアルに3回参加し、試合にも出て、正式な契約の話までしていた。当時はドバイに本拠地がある大きなクラブが3つか4つ、僕に関心を示していたんだ。ところが、最終的にはすべてがダメになってしまった」
だが、サッカーの神様はまだジャンを見捨てていなかった。
(つづく)
第2回 >>> 戦火のウクライナでプレーしたジャン・クルード「人生でもっともクレイジーな経験だった」
ジャン・クルード Jean Claude
2003年12月14日生まれ、トーゴ・ロメ出身。14歳で出場したU-17アフリカ・ネーションズカップで注目され、UAEのアル・ナスルのユースに引き抜かれ、そこでプロに。帰化を断ったことでファーストチームに居場所を失い、2023年9月からウクライナのゾリャ・ルハンシクへ期限付き移籍。翌2024年7月に横浜F・マリノスに完全移籍で加入し、驚異的なスピードや鋭い寄せで中盤を引き締めている。
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