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浦和レッズを強豪に変えたブッフバルト 監督として3つのタイトルをもたらした (4ページ目)

  • 戸塚 啓●取材・文 text by Totsuka Kei

【迷うことなく「日本で仕事をしたい」】

 彼自身の近況を聞いたあとは、自然と日本サッカーの話題になる。

 ギドはJリーグや日本代表について、いくつかの質問をしてきた。前年のフランスワールドカップについて聞くと、「ドイツ代表のことは話しませんよ」と、また笑った。1994年に続いてベスト8で敗れた母国に触れるのは、気が進まなかったのだろう。

「日本はいいプレーをしたけれど、勝つことを忘れていましたね。ワールドカップに初めて出場したのは、技術や戦術のレベルが高くなった証拠で、勝つために何が足りないのか、日本はあのワールドカップで初めて理解できたのだと思います。

 その意味でも、Jリーグにはまだまだ経験豊富な外国人選手や監督が必要でしょう。ワールドクラスの選手が少なくなっているのは、Jリーグにとって残念なことですね」

 そうやって言われたら、次に聞きたいことは決まっている。

 それならば、あなたが戻ってくるというのはどうですか?

 ギドは迷うことなく答える。今朝食べた食事について話すように、すらすらと。

「いつかまた日本で仕事をしたい、という希望はあります。指導者のライセンスが取れれば、監督もやりたいですね」

 その言葉が現実となったのは、レッズを離れてから7年後の2004年だ。

 就任1年目は田中マルクス闘莉王、三都主アレサンドロ、ブラジル人CBネネらが加入し、セカンドステージ優勝を成し遂げる。横浜F・マリノスとのチャンピオンシップは1対1のまま延長Vゴールに突入し、PK戦までもつれた末に敗退した。

 翌2005年は天皇杯を獲得する。浦和にとってはJリーグ発足後初の天皇杯制覇だった。リーグ戦でも最終節まで優勝を争った。

 機は熟した。2006年は開幕から勝ち点を重ね、初のJリーグ優勝へ導いた。優勝を決めたガンバ大阪とのホームゲームは、62,241人の大観衆が詰めかけた。この数字は今もってクラブ最多記録である。

「Jリーグのお荷物」とも呼ばれたチームを、助っ人外国人として上位へ押し上げた。監督としてチームに舞い戻り、クラブのショーケースに3つのタイトルを並べた。

 Jリーガーとしてプレーした助っ人外国人で優勝監督となったのは、ギド・ブッフバルトと、ドラガン・ストイコビッチのふたりだけである。

著者プロフィール

  • 戸塚 啓

    戸塚 啓 (とつか・けい)

    スポーツライター。 1968年生まれ、神奈川県出身。法政大学法学部卒。サッカー専誌記者を経てフリーに。サッカーワールドカップは1998年より7大会連続取材。サッカーJ2大宮アルディージャオフィシャルライター、ラグビーリーグワン東芝ブレイブルーパス東京契約ライター。近著に『JFAの挑戦-コロナと戦う日本サッカー』(小学館)

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