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浦和レッズを強豪に変えたブッフバルト 監督として3つのタイトルをもたらした (3ページ目)

  • 戸塚 啓●取材・文 text by Totsuka Kei

【最終年もほぼフルタイム出場】

 1994年7月の来日当時、浦和とは1995年まで契約を結んだ。その後、1996年までの1年契約を結び、さらにもう1度、延長している。

「妻もふたりの息子も、日本での生活をとても楽しんでいました。ただ、子どもたちの学校を考えると、1996年末のタイミングでドイツへ戻ることが、よりよい判断でした。ですが、私と家族は何度も相談をして、家族が先にドイツへ戻り、私はもう1年レッズでプレーすることにしたのです」

 Jリーグ4シーズン目となる1997年は、ホルガー・オジェックからホルスト・ケッペルへ指揮権が移った。ギドは開幕からフルタイム出場を続け、外国人の入れ替えや若手の登用など動きの激しいチームを支えた。

 最終節の残り数分で負傷交代を強いられ、全試合フルタイム出場はならなかったものの、その存在感は衰え知らず。1990年のイタリアワールドカップ決勝でディエゴ・マラドーナをマークし、旧西ドイツに3度目の優勝をもたらした姿のまま、彼は日本を去っていった。

 1999年春に、ドイツのカールスルーエを訪れた。スタジアムに隣接するイタリアンレストランに入ると、大きなパネルが目に止まった。

 歯を食いしばり、首にしわを寄せ、肩をいからせてドリブルをする。38歳になったギドだった。カールスルーエの選手として、彼は現役を続けていた。

「レッズとの契約を終えたあと、ブンデスリーガの7、8チームからオファーがありました。でも、すべて断りました。家族とゆっくり生活するつもりだったのです。でも、トーマス・ヘスラーに『半年だけチームを助けてくれないか』と言われて」

 ドイツ代表当時のチームメイトに強く復帰を要望され、ギドは再びスパイクの紐を結んだ。ところが、カールスルーエが2部に降格してしまったことで、さらに1シーズン現役を続けることになったのだった。

「コンディション的にはできる状態だったので、さらに契約を延長したのです。家族とゆっくり過ごすのが、また先延ばしになってしまいましたが......」と笑った。

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