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【Jリーグ】佐藤寿人が見た「ルーキー監督」森保一 降格候補の広島をJ1優勝へ導いた手腕 (2ページ目)

  • 原山裕平●取材・文 text by Harayama Yuhei

【代表監督になっても変わらない部分】

 森保さんは当時、アルビレックス新潟のヘッドコーチでしたが、2007年から2009年までは広島のコーチを務めていました。ミシャのやり方を熟知しているので、チームの基盤は崩れることはないだろうと。それと横内(昭展/現モンテディオ山形監督)さんの存在も心強かったです。

 ヨコさんはずっとミシャと一緒にやってきているので、森保さん以上に広島の現状を理解していたと思います。ミシャと一緒に出ていく可能性もあったなかで、残ってくれたのはありがたかったです。

 ただ、僕ら選手からすると、スタッフ陣の関係性が少しアンバランスに見えたんですよね。ミシャの下でヘッドコーチを務めていたのはヨコさんで、森保さんは2年間、外に出ていました。

 しかも、森保さんは広島にいた時はアシスタントの立場でしたし、年齢的にもヨコさんのほうが上だったので、その立場が逆転することは選手サイドからすると、ちょっと気を遣うところはありました。ヨコさんはそれまで、森保さんのことを「ポイチ」って呼んでいましたからね。

 でもヨコさんのすごいところは、そういった部分を一切、表に出さなかったこと。葛藤はあったかもしれませんが、ヘッドコーチとして森保さんを支える仕事を全うしていました。森保さんが監督になってから、ヨコさんが「ポイチ」と呼ぶことを一度も聞いたことがありません。

 ヨコさんもそうですが、フィジカルコーチの存在も大きかったですね。ミシャ時代にフィジカルコーチはいなかったので、僕らは入れてほしいとフロントにお願いしていたんですよ。でも、ミシャは自分ですべてを管理したい監督だったので、僕らの要求は通らなかったんです。

 だけど、森保さんは監督ひとりの力でチームを作るのではなく、コーチングスタッフすべての力を結集して、強化を推し進めていくタイプの監督でした。

 当時はまだ43歳でしたし、監督経験もない。たしか、最初のミーティングで言ったんです。「俺はすべてを自分の力でできるわけではないから、それぞれのスペシャリストの力を借りてチームを作っていく」って。

 必要以上に自分を大きく見せず、人の力を合わせながらチームを作り上げていくのは、当時もそうですし、日本代表の監督になった今でも変わらない部分だと感じています。

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