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J1連覇を狙うヴィッセル神戸のスタジアム 半世紀前に世界的スーパースターも感嘆した芝の美しさ (2ページ目)

  • 後藤健生●文 text by Goto Takeo

【日本初の球技専用スタジアム】

 神戸の街が阪神・淡路大震災に襲われた1995年にヴィッセル神戸が誕生するまで、神戸にはトップリーグのチームは存在しなかった。日本サッカーリーグ(JSL)時代にも神戸にはチームは存在しなかった。

 だから、東京生まれの僕は神戸のサッカーについてはほとんど何も知らなかった。

 神戸について興味を持ったのは、1970年に「御崎サッカー場」(のちに「神戸市立中央球技場」と呼ばれるようになった)が完成してからだった。

 日本初の球技専用スタジアムだった。東京都北区に西が丘サッカー場(現、味の素フィールド西が丘)が完成するのは1972年のことだ。

 収容力は1万3000人ほどでバック側とゴール裏は芝生席だけだったが、とにかく専用球技場の完成はビッグニュースだった。スタジアムの四隅に各1基の照明塔が立つ「コーナーライティング」方式も、イングランドのサッカー場のようでお洒落だった。

 そして何よりもすばらしかったのは、その美しい天然芝のピッチだった。

 当時、国立競技場などの芝生の状態はどこも悪く、初夏に植え替えられた芝生は試合を重ねるたびに消耗し、秋にラグビーが行なわれたりすると土がむき出しの状態になってしまうことが多かった。

 だが、御崎サッカー場の芝生はとにかく平坦で美しかった。

 僕は、「御崎サッカー場に行ってみたい」と思った。すると、訪問の機会はすぐにやって来た。1970年8月にポルトガルのベンフィカが来日し、日本代表との第1戦が御崎サッカー場で行なわれることになったのだ。

1970年のベンフィカ対日本代表戦のチケット(画像は後藤氏提供)1970年のベンフィカ対日本代表戦のチケット(画像は後藤氏提供)この記事に関連する写真を見る ポルトガルは1966年のイングランドW杯で3位に入り、エウゼビオが大会得点王となっていた。アフリカ大陸南部のポルトガル領モザンビーク出身で、スポルティングとの激しい争奪戦の末にベンフィカに入団したエウゼビオは、たちまちブラジルのペレと並ぶスーパースターとなった。そのエウゼビオがやって来るのだ。

 そこで、僕は御崎サッカー場見学を兼ねて観戦に行くことを決めた。

 1970年には大阪府吹田市の千里丘陵で万国博覧会が開催されていた。そこで、僕はまず万博を見物してから神戸に向かうことにした。

 万博会場では長蛇の列に並んでアメリカ館の「月の石」(アポロ12号が持ち帰った石が展示されていた)を見学。その後、ポルトガル館にも行ってみた。すると、ちょうどそこにベンフィカの選手たちがやって来てクラブの絵葉書を配り始めたので、僕は早速それにサインをしてもらった。

 さて、神戸での対戦。日本代表はマンマークでエウゼビオに森孝慈をつけ、小城得達をスイーパーにして守備を固めたが、0対3で敗れてしまう。その後、ベンフィカは東京・国立競技場で2試合を行なったが、1対4、1対6とどちらも一方的なスコアになってしまい、エウゼビオは第2戦でなんと4ゴールを決めた。

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