助っ人Jリーガー・あの人は今〜1994年の得点王「オッツェ」に会いにブレーメンまで行ってきた (2ページ目)

  • 了戒美子●取材・文 text by Ryokai Yoshiko

【リティの電話から数週間後、フライトに飛び乗った】

 後押しとなったもうひとつの要素は、すでに日本との縁を持っていたからだ。

 オッツェは1983年から1989年までプレーしていたブレーメンで、キリンカップ出場のために日本に遠征した経験があった。当時のチームメイトには奥寺康彦が在籍していたこともあり、彼の凱旋のための来日でもあった。

オッツェに日本の思い出を聞いた photo by Minegishi Shinjiオッツェに日本の思い出を聞いた photo by Minegishi Shinjiこの記事に関連する写真を見る「1986年に奥寺がブレーメンから日本に帰るタイミングで(奥寺は1986年にブレーメンから古河電工に復帰)キリンカップに出場したのです。僕たちにとっては、奥寺を日本に送りがてら試合をした感じでしょうか。その時の日本滞在がすごく楽しかったんですよね。だからリティの誘いで日本行きのチャンスがあると聞いて、とてもうれしかったんです」

 1986年のキリンカップは、ドイツのブレーメン、ブラジルのパルメイラス、日本代表とアルジェリア選抜の4チームで争われた。

 奥寺のラストマッチとなった決勝戦で、ブレーメンは三浦知良を擁するパルメイラスと対戦。オッツェの2ゴールを含む4-2でブレーメンが勝利し、奥寺の花道を飾った。この時はまだ、のちにオッツェがJリーグで得点王になることはおろかプレーすることも、誰も知らなかったわけだ。

 当時の日本を、オッツェは無邪気に楽しんだ。

「日本滞在の10日間、そのほとんどは東京で過ごしたんですけど、その時にお世話してくれた人とは、今でも友だちなんです。そういうピッチ外のことを含めて、いろいろと楽しかったんですよね」

 この時のいい印象のおかげで、オッツェは前向きな気持ちで日本にやってきた。リティからの電話からわずか2〜3週間後、オッツェは日本行きのフライトに飛び乗った。

「電話のあと、リティから何枚か、紙が送られてきたんですよ。簡単なドイツ語と日本語が書かれていて、『これを飛行機のなかで勉強しろ』と。ミギ、ヒダリ、ウシロ......そういう簡単な言葉でしたけどね」

 右も左もわからないまま......ではなくて、ミギとヒダリとその他いくつかの単語だけを覚えて、オッツェは日本に降り立った。

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