小野伸二引退表明で思い起こす3試合 日本サッカー史上、最も技術力の高い選手だった (3ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • 山添敏央●撮影 photo by Yamazoe Toshio

【バルサでやっていける】

 小野は直後にパラグアイで開催されるコパアメリカ1999に臨む日本代表の一員に選ばれていた。だが、出発の間際になって、フィリピン戦を戦う五輪チームの一員に移された。観戦チケットが売れていなかったからだと言われている。小野を客寄せパンダにしようとしたわけである。国立競技場にはその結果、3万9000人が集まった。その前半30分過ぎ、小野は相手選手に蟹挟みを食い、靭帯に大ケガを負った。

 小野はそれでもフェイエノールトでスタメンを張った。4-2-3-1の3の右、1トップ下なども務めたが、途中から守備的MFとしてプレーする機会が増えていった。アタッカーとしての推進力が不足していたことと、それは大きな関係がある。原因がケガにあることは明白だった。

 ケガをする前は、同じ頃、バルセロナで売り出し中のシャビより上だと思われた。小野はバルサでやっていける。筆者は自信満々でそう見ていた。当初の小野は久保建英の上を行く選手だった。

 しかし、代表キャップ数は56に終わった。チャンピオンズリーグ出場回数も9回に留まった。2006年ドイツW杯では、途中交代で1試合しか出場していない。

 最大の晴れ舞台は2001-02シーズンのUEFA杯(現ヨーロッパリーグ)だ。フェイエノールトは決勝に進出。2002年5月8日、ドルトムントと対戦した。

 あらかじめ定められていた決勝の舞台は「デカイプ」で、フェイエノールトはホームで決勝戦を戦うという幸運に恵まれた。結果は3-2でフェイエノールトの優勝。守備的MFとして先発した小野は85分までプレーしている。

 欧州カップ戦と言えば中立地で行なわれるものだが、この時のフェイエノールトはホームスタジアムで優勝を遂げる恰好になったので、試合後が大変だった。街はお祭り騒ぎというレベルではなかった。市民は狂喜乱舞、錯乱状態で、危ないといったらありゃしなかった。

 欧州でのサッカー観戦歴はそれこそ数百試合とあるが、最も恐ろしかったのはこの試合後だ。筆者は頭を覆い、警官隊のサポートを受けながらホテルまで辿り着いた次第だ。今となってはいい思い出である。小野引退の報道を耳にして、いの一番に蘇ってきた光景がこれになる。

 1999年7月4日の国立競技場がその次で、3番目が1998年3月8日の仙台になる。ケガさえなければCL出場100回は行けたかも、と言いたくなる、日本サッカー史上、最も技術力の高い選手だった。

プロフィール

  • 杉山茂樹

    杉山茂樹 (すぎやましげき)

    スポーツライター。静岡県出身。得意分野はサッカーでW杯取材は2022年カタール大会で11回連続。五輪も夏冬併せ9度取材。著書に『ドーハ以後』(文藝春秋)、『4-2-3-1』『バルサ対マンU』(光文社)、『3-4-3』(集英社)、『日本サッカー偏差値52』(じっぴコンパクト新書)、『「負け」に向き合う勇気』(星海社新書)、『監督図鑑』(廣済堂出版)、『36.4%のゴールはサイドから生まれる』(実業之日本社)など多数。

3 / 3

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る