板倉滉、三好康児、三笘薫、田中碧...4人はフロンターレでどう育ったのか。幼少時代のコーチに聞いたそれぞれの特長と共通点 (4ページ目)

  • 原田大輔●取材・文 text by Harada Daisuke
  • photo by AFLO, ©KAWASAKI FRONTALE

 同じように滉も、小学5年生くらいの時期には、身体の成長に対して運動神経が追いつかず、やはり思うように身体が動かせない時期がありました。ポジション的にもちょうど後ろをやる機会が多くなっていたこともあり、FWでプレーしたいという思いもまだ残っていたなかで、自分の身体と葛藤していた時期だったので、個人的に話をしたこともありました」

 玉置は育成年代の指導者として「どこまで寄り添うかは難しいところですが、そうした彼らの些細な変化を見逃さないことは大事だと思っています」と話す。

 冒頭でつづった三笘にしても、セレクションでのプレーを見て驚きを隠せなかったものの、クラブとしては合否に関して議論したという。

 というのも、当時の三笘は線が細く、U−10からのスタートとはいえ、中心は小学4年生になる。小学3年生である三笘は、身体的に特徴が発揮できなくなる可能性があった。そのため、「うちでプレーすることが、今の彼のためになるのか」という将来性を懸念したのである。

 話し合いの結果、プレーの魅力がまさり、U−10への加入が決まったが、やはり年齢差からくる身体的なハンデに当初は苦戦した。ただ、ここで玉置が驚いたのは、三笘の創意工夫する姿にあった。

「当時からスピードはありましたが、やはり相手と接触してしまうと止められてしまうところがありました。でも薫は、そこであきらめるのではなく、相手と接触する前に勝負を仕掛けることを考え、実践するようになりました。そうやってプレーを工夫し、発展させていく姿を見て、すごく頭のいい選手だなと思った記憶があります。

 トップチームに昇格してからは、そのドリブルを『ぬるぬる』といった言葉で表現されていましたが、特別なフェイントをするわけではなく、相手と接触しないようにするすると抜けていくドリブルは、今まで見てきた選手のなかでも一番だったと思います。

 薫が試行錯誤してそのドリブルを身につけたように、アカデミーからトップに昇格した選手たちには、その時々の自分で勝っていくために何をしなければいけないのかを考え、取り組んでいく姿勢、すなわち自分で考えられる選手たちだったように思います」

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