武田修宏が語るJリーグ30年。「言いたいことを言って結果を出す文化があった」 (2ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • 山添敏央●写真 photo by Yamazoe Toshio

【手取りがいきなり10倍になった】

――当時の選手は、経済的にはどうだったんですか?

「読売クラブの時はセミプロみたいな感じで、1試合勝つと10万円。敗れると0円で、引き分けが5万円でした。多い人で手取りが月40万ぐらいでした。それがプロになってJリーグが始まると、手取りがいきなり500万になった。40万が500万に変わりました(笑)。2001年は0円提示で戦力外時代もありました。

 読売クラブに入った時から年契約で、三浦泰年さんと一緒に入ったんですけれど、合わせて5人入って1年で他の3人はクビになりました。確かにクルマは日本車からポルシェに変わりましたけれど、読売クラブ時代からプロとしての自由と責任、結果、厳しさに変わりはありませんでした。

 読売クラブ以外のチームは実業団で、選手は仕事をやりながらサッカーをしている感じだったのですが、奥寺(康彦)さんと木村和司さんは、プロ選手としてのスペシャルライセンスを持っていて、19歳で日本代表に選ばれた時、奥寺さんが、西が丘(サッカー場)にベンツで乗りつけた姿を強く覚えています。『さすがだな、奥寺さんは。世界で活躍した選手は、外車に乗ってやってくるんだ』と。奥寺さんや和司さんの当時の年俸は3000万円だったそうです」
 
――ピッチを離れても人気者でした。

「19歳で読売クラブに入った時から、ラモス(瑠偉)というピッチの鬼監督がいたので、試合に負けたらテレビに出るなとか、点をとって勝っても、パフォーマンスが悪かったら怒られましたね。プロの選手として、しっかりグランドで結果に対して責任を持つという考え、プロフェッショナルイズムを教えてもらいました。それはまあ厳しかったですよ。
 
 いまの日本人は他人を面と向かって非難しないでしょ。なあなあで終わりますが、言いたいことを言いながら結果を出すのが当時の読売クラブ、ヴェルディ川崎流で、そういう文化がチーム内に浸透していました。

 当時は、毎週2日、水曜日と土曜に、延長Vゴール制の激しい試合をしていて、自分でトレーナーを雇ったり、マッサージの人を呼んだり、オフも手を抜いていませんでした。それもこれも『プロはグランドのすべての成果に責任を』と叩き込んでくださったラモスさんのおかげです。

 1993年、94年頃のヴェルディは、それこそ1回チャンスを逃したら、次にいつ出番が回ってくるかわからないほど過酷でした。当時、いまアビスパ福岡の監督をしている長谷部茂利は、1回パスミスしたらネルシーニョ監督から丸半年、干されたこともありました。ネルシーニョ自身、ホームで3連敗して辞任に追い込まれました。一人ひとりが成果に責任を持ち、競争のレベルが高かったです」

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