武田修宏が語るJリーグ30年。「言いたいことを言って結果を出す文化があった」 (3ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • 山添敏央●写真 photo by Yamazoe Toshio

【自分たちがサッカー界を率いるという気持ち】

――武田さんは、特にゴール前のポジション取り、得点感覚が優れた選手でした。
 
「高校を卒業してブラジルスタイルの読売クラブに入った時に、うまさでは勝てないから、点をとることだけで結果を出そうと、目標がハッキリしました。リフティングはできないし、トラップもヘタだけど、僕に求められている結果はゴール。点をとればオッケーだと。

 実際、日本のトップリーグ(JSL)で11点をとっていますし(1986~87)、ヴェルディ川崎でも1993、94、95の3シーズンで、60点をとりました。カズが59点だったので、2トップで119点とったことになります。結果を出さないと、すぐにベンチに下げられちゃうんで必死でした。『武田はペナルティエリアの中にいられると一番いやな選手。相手のミスを常に狙っている』と当時、ジーコは言っていたそうです。

 その一方で、Jリーグ1年目、2年目の頃、アウェーの試合に行った時、『大きな古時計』の替え歌で「大きな緑の木偶の坊、読売の武田~」とか「いまはもう使えない、読売の武田~」とか。大観衆から大ブーイングを浴びせられたこともありました。でも得点をとってチームが勝利。結果をグランドで出し、メンタルはたくましくなりました。

 時代は変わりましたが、当時は誇りとか、責任とか、ハングリーさを持ちながら、なんとか結果を出そうとやっていました。テレビに出ることもサッカー人気のためと考えていました。自分たちがサッカー界を率いていかないといけないという気持ちでした」

――1993年の秋にはドーハの悲劇で知られる1994年アメリカW杯アジア最終予選が行なわれました。武田さんも出場しましたが、当時の代表チームとクラブチームと、重きの置き方はどうでしたか?

「その前の年に広島で行なわれたアジアカップで優勝して。オフトジャパンですね。読売クラブ、ヴェルディ川崎ではカズと2トップを組んでいましたが、代表では高木琢也くんがいて、スーパーサブに中山ゴンちゃんがいて、僕はFWの4番手でした。

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