欧州でプレーする姿が見たかった。海を渡らなかったJリーガーたち (3ページ目)
その遠藤とG大阪、ジュビロ磐田で一緒にプレーする今野泰幸の場合、海外移籍のチャンスをケガで逃している。
セリエAのレッチェから動向を注視されていた2005年末、天皇杯の試合で左ひざを負傷。全治6週間とすぐに試合に出られる状態にはなかったが、それでもスポーツ報知『サッカー F東京・今野泰幸にセリエAのレッチェから獲得のオファー』(2006年1月8日付)によれば、レッチェから日本での治療を許可するVIP待遇で正式オファーは届いた。
だが、イタリアでの健康診断の結果、左ひざの状態が見込みほど軽くはないことが判明。獲得は見送りとなった。
翌年もセリエAジェノアから獲得の興味を示されたものの、最終的には正式オファーに至らずに移籍話は霧散。日本代表監督だったイビツァ・オシム監督から厚い信頼を寄せられたポリバレントなボランチが、全盛期に『守備の国』イタリアでプレーする姿は見たかったものだ。
1980年生まれの黄金世代にあって、小野伸二とともに最初に日本代表にたどり着いた市川大祐(2016年引退)も、海外リーグで見たかった選手だ。
181cmの長身と躍動感のある攻撃参加が持ち味で、1998年4月にソウルで行なわれた『W杯共催記念日韓戦』で、高校在学中17歳322日の日本代表最年少記録で日本代表デビューを果たした。当時の日本サッカー界にとって、市川は"希望の星"でもあった。
しかし、周囲に期待されるストレスと「常に全力投球」という性格が災いして、1999年のワールドユース直前でオーバートレーニング症候群を発症。2000年シドニー五輪代表からも落選した。だが、2001年末に日本代表合宿に招集され、2002年W杯日韓大会の代表メンバーに選ばれた。
"タラ・レバ"を言い出せばキリはないが、市川に遠回りした時間がなければ、長友佑都によって開かれる「日本人サイドバックの海外挑戦」の扉は、もっと早いタイミングで市川によって開かれていた可能性はある。
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