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カズ、ジーコ...鹿島初のブラジル人
監督が語る日本の思い出 (2ページ目)

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

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 76年には1シーズンのみだがフラメンゴに在籍し、弟のジーコとともに戦った。その時のことを思い出し、ジーコはこう語っている。

「私の兄はサッカーのことをよくわかっている。プレーだけでない。ロッカールームでの振る舞い方、監督やサポーターやメディアとの付き合い方、サッカーのすべての面において完璧だ」

 そんな完璧なプレーヤーだったエドゥが81年に引退してその後、監督となったのは、なるべくしてなったという感がある。

 引退してから3カ月後、エドゥはまず彼の心のチームであるアメリカの監督に就任した。ここで手腕を見せたエドゥは、その1年後にブラジル代表監督の候補に挙がる。82年、CBF(ブラジルサッカー連盟)は、ためしに3試合だけ彼に指揮を任せ、その結果、82年W杯の後から84年まで、セレソンを率いることになった。その後、古巣のヴァスコ・ダ・ガマの監督を引き受け、チームをリオ州チャンピオンに導き、イラク代表監督なども務めている。

 他にもさまざまなチームを率いてきたエドゥだが、特筆すべきは87年に率いたコリチーバだろう。この時、チームにはひとりの日本人選手がいた。名前を三浦知良という。はじめてカズのプレーを見た時、彼はすぐにこの若者が世界に名を馳せるような選手、日本サッカーを牽引するような選手になると看破したという。

「だから私は彼に、自分が教えられるだけのことを教えようと思った。テクニック、創造性、そして何よりピッチで自信を持つことだ。彼のサッカー人生に何らかの影響を与えることができたのではないかと思う」

 エドゥは、ブラジル時代のカズが正当に評価されていないことを、常々不満に思っていると言う。

「多くの日本人は、ブラジル時代のカズが、それほど知名度がなかったと勘違いしている。私はその誤りを訂正したい。彼はコリチーバの主力選手であり、私と一緒にチャンピオンにもなっている。ほとんどすべての試合に出場し、優秀で真面目な彼を、私はとても頼りにしていた。

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