2020.10.07

カズ、ジーコ…鹿島初のブラジル人
監督が語る日本の思い出

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

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 ジーコは言う。

「我々兄弟の中で、一番サッカーをわかっているのはエドゥだ」

 ジーコには兄弟が6人いる。そのうち姉を抜いた男全員がサッカー選手になった。ジーコは末っ子、そして今回の主役、エドゥ―エドゥアルド・アントゥネス・コインブラは上から4番目だ。彼は「ジーコの兄」と呼ばれ続けているが、彼自身、すばらしい選手であり、Jリーグでプレーしたことはないが、何より指導者として大きな足跡を日本に残している。

1994年から95年にかけて鹿島アントラーズの監督を務めたエドゥphoto by Yamazoe Toshio→キャプ エドゥは少年時代から優れた選手だった。リオデジャネイロのアメリカで選手として成長し、16歳の時には、たった15日間で4つのカテゴリー(U-16、U-18、U-23、トップチーム)でプレーしたことで、ギネスブックに載ったこともある。1966年にトップチームに入ってからは8年間で400試合以上に出場し、200ゴール以上を決めている。

 1967年にはブラジル代表入りも果たしているが、代表ではあまり運がなかった。彼は背番号10の選手だったが、同時代のブラジルにはペレ、リベリーノと、あまりも偉大な背番号10がいたからだ。巡り合わせもついていなかった。ブラジルが優勝した1970年にはぎりぎりのところで代表落ちをし(23人目の候補だった)、74年には大会直前にケガをしてしまった。しかし1969年には、ペレやトスタン、リベリーノなど、その半年後に世界を制するスターたちを抑えて南米最優秀選手に選ばれてもいる。

 エドゥは10番でありながら、ストライカー以上に多くのゴールを決めた。また、ピッチでは常に紳士で、タサ・ディシプリーナ(ブラジルのフェアプレー賞)に2度も選ばれている。この賞を2度得たのはブラジルサッカー史上でもエドゥだけだ。ピッチで言い争いをしたことは一度もなく、記者に悪い態度をとったこともなかった。

 エドゥの何よりの才能は、人の心をすぐにつかむことだった。サポーターとの関係はいつも最高、人を引き寄せる力を持っていた。長年プレーしたアメリカでは絶対的なスターであり、その後プレーしたヴァスコ・ダ・ガマでもチームのアイドルだった。