2020.08.14

暴言吐いて殴る蹴る。伝説の
トラブル王エジムンドが日本に来るまで

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

 このころ私生活では、ひどい自動車事故を起こし、助手席の女性と対向車のドライバー2人を死なせ、有罪判決を受けた。有能な弁護士のおかげで服役することはなくプレーを続けたが、「人殺し」などのヤジを飛ばされてリオが嫌になったのか、コリンチャンスにレンタル移籍した。コリンチャンスでも多くのゴールを決めたが、リベルタドーレス杯では準々決勝で敗退した。

 その後、エジムンドはヴァスコに戻り、チームを降格から救う。4-1で勝利したフラメンゴ戦では、3ゴールがエジムンドのものだった。

 翌年の1997年は、彼のサッカー人生の中でも一番輝かしい1年だった。エヴァイールとコンビを組み、才能ある若手たちを率い、ヴァスコをブラジル王者に導いた。

 自身は28試合で29ゴールを決め、レイナウドが持っていた全国リーグでの最多得点記録を20年ぶりに更新した。その中には1試合で6ゴール決めたサン・ジョアン戦、フラメンゴ戦でのハットトリックも入っている。決勝の2試合は、ゴールこそ決めなかったが、その存在感は際立っていた。ファーストレグでイエローカードをもらい、累積で最終戦に出られないことが決まると、審判に暴力をふるい、裁判沙汰にまで発展した。

 この年ブラジルの最優秀選手に選ばれた後、彼は900万ドル(当時のレートで約12億円)でイタリアのフィオレンティーナに移籍した。そこで彼はアルゼンチンの巨星ガブリエル・バティストゥータ、ポルトガルのマヌエル・ルイ・コスタとともにプレーし、一時期はチームをセリエAのトップにまで導いた。

 しかし、チームにうまくなじめなかったようで、1998年の年末にはチームのほとんどの選手、コーチと不仲になり、ローマ戦で交代させられると、テレビカメラの前でジョヴァンニ・トラパットーニ監督を非難。その数日後には、それまで一番仲のよかったエミリアーノ・ビジカを口論の末殴っている。

 年が変わるとフィオレンティーナはケガ人が続出し、その中にはバティストゥータも含まれていた。正念場であったにもかかわらず、エジムンドは契約の条件であるとして、シーズン途中にカーニバルのためリオに帰ってしまった。