暴言吐いて殴る蹴る。伝説のトラブル王エジムンドが日本に来るまで (2ページ目)

  • リカルド・セティオン●文 text by Ricardo Setyon
  • 利根川晶子●翻訳 translation by Tonegawa Akiko

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 エジムンドはほどなくサポーターの心をつかみ、16年間タイトルから遠ざかっていたチームを、93年、94年と2年連続で、州リーグのみならず全国リーグで優勝に導いた。当時のチームには、エジルソン、エヴァイール、ロベルト・カルロス、サンパイオ、マジーニョ、ジーニョなど多くのスター選手がいたが、一番の原動力はエジムンドだった。

 しかし、この頃から彼の攻撃的な性格も明らかになってくる。1993年、サンパウロ州リーグの決勝でライバルのコリンチャンスと当たった時のことだ。ファーストレグではコリンチャンスが勝利し、相手チームの選手が豚の真似をして挑発してきた。

 セカンドレグでパルメイラスは復讐に燃えた。チームは4-0で勝利して優勝。エジムンドはゴールこそなかったものの4得点すべてに絡み、それだけではなく、彼らを中傷したパウロ・セルジオに一発見舞って留飲を下げた。

 また、翌年の試合でもサンパウロの選手に蹴りを入れ、もう少しで訴えられるところだった。エクアドルで行なわれたリベルタドーレス杯では、敗退後取材しようとしたカメラマンの機材に蹴りを入れ、そのままホテルの部屋に6日間留め置かれた。

「態度を改める」と約束しながらも、その後もヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ監督やチームメイトとのもめ事が多く、チームは彼との契約更新を望んだが、サポーターがそれを許さなかった。

 1995年にフラメンゴに移籍。顔見世パレードをするなど鳴り物入りで加入し、ロマーリオとコンビを組み「夢のアタックコンビ」もしくは「バッドボーイズ」とも呼ばれた。ただ、この攻撃陣はあまり機能しなかった。

 一度などは相手サポーターに「世界最低のアタッカー」と野次られ、エジムンドは自分の男性のシンボルをむき出しにして振って見せ、大問題となった。また、リベルタドーレス杯のアルゼンチンのベレス・サルスフィエルドとの試合では、フラメンゴが3-0で勝ち、エジムンドはゴールも決めたのに、相手DFと殴り合いになっている。

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