オシムに心酔していた阿部勇樹。自らの移籍についても「相談した」 (5ページ目)

  • 佐藤 俊●取材・構成 text by Sato Shun
  • 甲斐啓二郎●撮影 photo by Kai Keijiro

「(オシムの代表監督就任を聞いて)最初はショックでしたね。もっと一緒にやりたかった。でも、日本サッカーのことを考えたら『仕方がないな』って思いました。そうやって、気持ちを切り替えてからは、代表へのモチベーションが上がりました。

 以前から代表に入りたいと思っていたけど、自分を成長させてくれた監督が代表監督になったので、なおさらその思いが強くなった。オシムさんとサッカーをするためには、代表に選ばれないといけない。そのためには、まずはチームでしっかり結果を出していこうと思っていました」

 オシムジャパンになって2戦目、アジアカップ予選のイエメン戦で、阿部は代表に初招集された。日本代表での練習は、ジェフの時と変わらなかったが、オシムの練習を初めてこなす代表選手にとっては、簡単にのみ込めるものではなかった。

 阿部は、ほかの選手から「これ、どうやるの?」「これって、どういうこと?」など、頻繁に質問を受け、一つひとつ説明した。同様に、当時の代表に招集されたジェフの選手は皆、オシムの練習や戦術の"説明役"を果たしていたのである。 

 オシムはまた、代表では個々の選手が複数のポジションをこなせるよう、従来のポジションでないところに配置することが多かった。たとえば、遠藤保仁はボランチではなく、トップ下や攻撃的MFとして起用した。阿部も、ボランチではなく、主にセンターバックで起用された。

 複数のポジションをこなすことを、オシムは「ポリバレント」と呼び、代表ではそういう選手を重用した。

「オシムさんが『ポリバレント』という言葉を使う前、僕ら(いろいろなポジションがこなせる選手)のことは『便利屋』とかって言われていた。それって、あまりいいイメージはないですよね。でも、『ポリバレント』と言われるようになって、そのイメージが変わり、オシムさんがそういう能力を求めたことで、そうした選手の価値が上がった。

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