サンフレッチェひと筋22年。引退した森﨑和幸の歩みはクラブの歴史だ (4ページ目)

  • 原田大輔●取材・文 text by Harada Daisuke
  • 佐野美樹●撮影 photo by Sano Miki

 その2001年は2ndステージになってチームの調子も上がり、3位に滑り込んだんですけど、ヴァレリーのサッカーは純粋に練習から楽しかった。攻撃志向なので、シュート練習も多く、常に攻撃にフォーカスした練習ばかりだったんです。

 個人としてはトップ下で起用されるようになり、より得点に絡まなければならなくなった。実際、ヴァレリーからも『もっと決定的なパスを出せ』と、よく言われていました。自分自身もそこにトライしようとしましたが、なかなかうまくいかなかったところはありましたね。

―― 次もロシア人のガジ・ガジエフ監督。こうして振り返って見ると、若手のころは外国人監督の指導ばかりを受けてきたんですね。

森﨑 新鮮ではありましたよね。監督が話したあとに、通訳がそれを説明してくれる感覚は。でも、エディで慣れたところもあって、違和感はありませんでした。

 ただ、ガジエフ時代は難しかったですね。僕個人としても、当時はまだ、戦術理解度もそれほど高くはなかったですし、ガジエフが本当にどういうサッカーをしたかったのか、理解することができませんでした。チームも勝てず、ガジエフはシーズン途中で退任。結果、J2降格となり、本当に難しい時期でした。

―― J2で迎えた2003年から小野剛監督のもと、チームは再出発。このころからですか、選手としての意識が変わってきたのは?

森﨑 そうですね。1度目のJ2降格となった2002年は、まだ自分のことで精一杯でしたけど、チームを降格させてしまったという責任を強く感じたんです。その経験から、何となくですけど、チームのことを考えるようになりました。

 それでJ2で再出発するときに、小野さんが監督になりました。小野さんとは年代別の日本代表のときから、ずっと一緒にやらせてもらっていたこともあって、僕に対する要求は高かったですし、同時に期待も感じていました。事あるごとに、「中心になれ、中心になれ」という言葉がけもしてもらいましたし、そうした言葉や態度から、自分の意識も変わっていきました。小野さんの言葉が、選手としてもうひとつ殻を破るキッカケになったのかなと、今では思っています。

(つづく)

【profile】
森﨑和幸(もりさき・かずゆき)
1981年5月9日生まれ、広島県出身。177cm・75kg。MF。サンフレッチェ広島ユース時代にチーム初の「高校生Jリーガー」としてデビューを果たす。2000年、Jリーグ新人王を受賞。2016年には史上14人目のJ1通算400試合出場を達成する。双子の弟・浩司とともにサンフレッチェの顔として活躍。

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