「ジーコの負けず嫌いはハンパなかった」。本田泰人はその魂を継いだ (3ページ目)

  • 寺野典子●文 text by Terano Noriko  井坂英樹●写真 photo by Isaka Hideki

――当時の本田技研はJSL(日本サッカーリーグ)で上位争いをするようなクラブでしたが、アントラーズの母体となる住友金属は2部リーグ。不安はなかったのでしょうか?

「当然ありました。でも、ジーコがいるというのは大きかった。僕にとってのアイドルですからね。ジーコのもとで、ジーコとサッカーができるチャンスはそうあるものじゃないでしょう? 

 そして、クラブハウスやスタジアムの完成予想図なんかを見せてもらって、『こんなに環境のいい場所でサッカーができるのか』という気持ちにもなった。それと鹿嶋という土地も僕には魅力的だった。だって、工場があるくらいでほとんど何もないような場所。遊びに行くところもないし、サッカーに集中するしかない環境だったから」

――とはいえ、今まで日本のトップリーグでプレーしていたわけですし、レベルの違いやカルチャーショックのようなものはありませんでしたか? 
「もちろんありましたよ。(宮本)監督もそれを感じていたのか、体力作りと基礎練習が長く続きました。本田技研時代もシーズン前のキャンプでは1カ月くらい同じようなことをやっていましたが、その後は徐々に戦術練習へ移るんです。でも、鹿島ではそれが2カ月くらい続きました。ジーコはこのなかでプレーしていたのかと思うと、逆にすごさを感じました」

――住友金属組、本田技研組、そのほかにも日産やNTTからの移籍加入選手でスタートしたアントラーズが、まとまっていく過程というのをどんなふうに感じていましたか?

「やはりジーコという象徴がいたことは大きかった。何より勝利に対するこだわりの強さは強烈だったし、チームは家族なのだから、まずはチームのことを考えるということを選手たちに求め、選手もそれに応えようと必死でした。技術的に劣るなら、走力で補うとか、できることに全力を尽くす。それがプロだと。

『チームのために』というのは本田技研時代に宮本さんもよく話されていたことでしたし、いろんなクラブから集まってきた選手たちがまとまるうえで重要なポイントになったと思います。年齢的には本田技研組の選手はみんな若かったけれど、僕らが中心にならざるを得ないという覚悟はありました」

――1993年のJリーグ開幕前にイタリア遠征がありましたね。

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