【育将・今西和男】李漢宰「サンフレッチェ広島で世界観が広がった」 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • 織田桂子●写真 photo by Oda Keiko

 ところが、監督に相談すると、サンフレッチェ広島の練習参加の話が即座に舞い込んできた。「チームに入ってのプレーを見てみよう」とすぐに腰を上げてくれたのが、強化部長の今西だった。

 今西には、その半生において在日朝鮮人、さらには在日のサッカー選手に対する特別の思いがあった。広島に原爆が投下され終戦を迎えてから2年後、1947年に市内の矢賀小学校に入学すると、近所の朝鮮人集落の人々が、快活だった今西少年をとても可愛がってくれたのである。ミシンを踏んで生計を支えてくれた母親がフェアな性格で、日本人も朝鮮人も分け隔てなく接して、破れた生地などを縫ってあげていた。

 近郊の二葉山に遠足に行くときは、金山さんという朝鮮人の上級生が「和男、お前はまだ小さいけえ。山登りはしんどいじゃろ。俺がおぶっちゃるけえ、背中に乗れ」と言ってくれて、わざわざ背負って登ってくれた。優しい金山さんが大好きだった。以来、まったく何の偏見も差別感情もなく、朝鮮人と付き合ってきた。

 1959年に東京教育大学(現・筑波大学)に入学すると、ここでまた大きな出会いがあった。今西は合格通知をもらうと同時に、サッカー部のマネージャーから「やる気があるのなら、合宿をやるから3月21日までに甲府に来い」という連絡を受けた。当時の教育大は新学期が始まる前に山梨で強化合宿を張っており、新入生にも声をかけていたのである。受験から解放された今西はボールが蹴りたくてたまらず、すぐに向かった。

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