【育将・今西和男】戦後70年。高校主催の慰霊祭に出席する理由 (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko

 自身、4歳のときに被爆している今西は、毎年この慰霊式典に出席している。あの時、2階にいなければ、母にガレキの下から救い出されなければ、自分はこの世に存在していないかもしれない。そんな感慨に、被爆の影響で90度以上曲がらなくなってしまった左の足首を見る度に囚(とら)われる。

 校歌を力強く歌うと、慰霊碑に献花に向かった。碑には「E=MC2」という物理学の公式を記した箱を抱えるもんぺ姿の女学生が刻まれている。1948年に建立する際は、まだ米軍占領下で「原爆」という言葉を使わずに表現したためとも言われる。

 式典が終わり、かつて生家があった東平塚町の方へ歩いてもらった。

「この辺りは焼け野原だったので、すべて変わっています。私は二葉山の防空壕に逃げたことは覚えています。火傷だらけで、膿んだ傷にハエが卵を産むのでウジが腕や足をはい回るわけです。それを取り除かれるのが痛くて私が暴れるので、兄弟はいつも身体を押さえつけていました。家が燃えてしまったので、跡地に『矢賀の親戚の家に行く』と立札をしたんです。しばらくすると、大きな火傷をした上の姉が大八車に乗って運ばれて来ました。おふくろがこんなケロイドができて、嫁に行けるんだろうかと心配していたのを覚えています。被爆者に対する偏見もあった。そういう現実から逃げ出したい。早くまともな生活をしたいという思いが強かったです」。

 姉はやがて為末という家に嫁ぎ、男の子を産んだ。今西からすれば、8歳年下の甥であるが、自分が末っ子だっただけに、実の弟が出来たように嬉しくて可愛がった。甥の名は敏之といった。いつも遊びに連れて行き、メンコ遊びで敏之が負けると、その倍勝って札を取り戻してやった。敏之は今西家の血筋らしく足が速かった。この敏之の息子が大。後に世界陸上の400メートルハードルで、2度もメダルを獲得することになる為末大である。一族はたくましく再起してきた。

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