サッカー日本代表の世界への扉を開けたのは30年前のユース世代 予選突破は簡単ではなかった時代 (2ページ目)
【U-17、U-20のアジア予選突破は1995年から】
さて、U-17W杯(2005年大会までは「U-17世界選手権」)は、1985年に第1回大会が開かれたので今年は40年目の節目の大会となる。1977年に第1回大会が開催されたU-20W杯(旧ワールドユース選手権)とともに、当時のFIFAのジョアン・アヴェランジェ会長の肝煎りで始まった大会だ。
1993年には日本で第5回U-17世界選手権が開催され、中田英寿や財前宣之、松田直樹、宮本恒靖などを擁する日本は準々決勝進出を果たしたのだが、僕はこの時は海外取材に行っていたのでナイジェリア対ガーナの決勝戦しか観戦していない。
僕が初めて本格的にU-17世界選手権を取材したのは、その2年後に南米エクアドルで開催された第6回大会だった。ウルグアイで開かれたコパ・アメリカを観戦した後、ブエノスアイレスで1週間を過ごしてからエクアドルに向かったのだ。
アルゼンチン滞在中はひどい寒さで風邪を引いてしまったが、エクアドルの首都キトは赤道直下の高原で過ごしやすい気候で助かった。
日本は2大会連続出場だったが、アジア予選を突破して出場権を獲得したのはこの大会が初めて。同年のワールドユース選手権でもアジア予選突破に成功したが、あらゆるカテゴリーを通じて日本代表が予選を突破してFIFA主催の世界大会に出場するのは、この年が初めてのことだった。
それまで、日本代表は五輪には1964年の東京大会を含めて4度出場しており、1968年のメキシコ大会では銅メダルを獲得している。だが、五輪はFIFA主催の大会ではなく、当時はプロ選手が出場できなかったため、西欧や南米からはアマチュア選手やプロ契約前の若手だけが出場する不均衡な大会だった。
そして、メキシコ五輪終了後、日本代表は弱体化。W杯はもちろん五輪にも出場できない時代が続いた。1979年には日本で第2回ワールドユース大会が開かれ、日本も開催国枠で出場したのだが、その後もやはりアジア予選を突破することができなかった。
1993年にはJリーグが開幕し、日本代表の戦力も急速に上がる。ハンス・オフト監督率いるフル代表はカタールのドーハで開かれたW杯アジア最終予選で「予選突破」に王手をかけたが、イラク戦の追加タイムに痛恨の同点ゴールを許して、W杯出場は4年後まで持ち越しとなった。28年ぶりに五輪出場権を獲得するのは、1996年のアトランタ大会でのことだ。
1995年のU-17日本代表には小野伸二や高原直泰、小笠原満男、稲本潤一といった錚々たるメンバーが揃っていた。MFの新井場徹やFWの山崎光太郎といった選手もいた。ほとんどのメンバーが高校チーム所属だったが、稲本や新井場(ともにガンバ大阪ユース)など、クラブチーム所属の選手が数名入っているのも、Jリーグ開幕直後の当時の状況を映し出している。
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