中田英寿、中村俊輔、小野伸二の3人をなぜトルシエは同じピッチに立たせなかったのか (3ページ目)

  • 田村修一●取材・文 text by Tamura Shuichi

 だが、「それと、彼のコミュニケーション能力は別の問題だ」とトルシエは言う。W杯の代表選考に際して、トルシエは中村から何の意思表示も感じなかった。

 トルシエが好むのは、故・松田直樹のような自らの意志をはっきりと示す選手である。韓国・ソウルでの五輪代表戦に起用されなかった松田は「試合に出られないなら、クラブに専念したいから」と言い残し、中央アジア遠征には同行せずに帰国してしまった。

 だが、トルシエとの間に遺恨が残ることはなかった。トルシエはその後も松田をチームにとどめ、シドニー五輪にもアジアカップにも松田を帯同させた。中村は、そうした割りきったコミュニケーション像からはかけ離れていた。

「2002年W杯の準備の段階で、私は一度として中村から『W杯にどうしても行きたい』という強い意志を感じなかった。W杯への準備が整っているかどうかもわからなかった。

 スペイン合宿でも数人の取り巻きと狭い世界に閉じこもり、何を考えているのか本心をうかがい知ることが私にはできなかった。メンバーを決定する際にも何のアピールも意思表示もなく、私に彼を選ばせる働きかけは何もなかった」

 ケガでコンディションが整わなかったというのが、トルシエが公にした中村落選の理由である。ただその裏には、「中村はベンチやロッカールームでチームの力になれる選手ではない」という、トルシエの判断があった。その役割を担えるのは、中山雅史や秋田豊であって、中村ではなかった。

 W杯後の中村の変化をトルシエはこう述べている。

「ジーコが(日本代表の)監督に就任したのが、彼にはよかったかもしれない。また、イタリア(レッジーナ)とスコットランド(セルティック)で異なる文化に接して、すばらしいパフォーマンスを発揮するようになり、以前とはまったく違う選手になった。

 私が監督当時の中村は、内気で野心を見せない典型的な日本の選手だった。海外のクラブに移籍したことで、彼は自分の心を開くようになった。そのテクニックと才能で、彼はスコットランドで評価を確立した」

(文中敬称略/つづく)

フィリップ・トルシエ
1955年3月21日生まれ。フランス出身。28歳で指導者に転身。フランス下部リーグのクラブなどで監督を務めたあと、アフリカ各国の代表チームで手腕を発揮。1998年フランスW杯では南アフリカ代表の監督を務める。その後、日本代表監督に就任。年代別代表チームも指揮して、U-20代表では1999年ワールドユース準優勝へ、U-23代表では2000年シドニー五輪ベスト8へと導く。その後、2002年日韓W杯では日本にW杯初勝利、初の決勝トーナメント進出という快挙をもたらした。

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