澤登正朗の「ドーハの悲劇」後日譚。大騒ぎになった記事の真相を明かす

  • 佐藤俊●取材・文 text&photo by Sato Shun

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私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第23回
「ドーハの悲劇」をベンチから見ていた若き司令塔の回顧録~澤登正朗(3)

(1)澤登正朗はドーハ入りし「W杯に行ける」と確信していたが...>>

(2)「ドーハの悲劇」をベンチから見た澤登正朗「自分が呼ばれると思ったら...」>>

 アメリカW杯アジア最終予選、日本は最終戦のイラクに引き分けて、2勝2分1敗の勝ち点6。勝ち点では韓国と並んでいたものの、得失点差で3位となり、W杯初出場の夢は潰えてしまった。

 最終予選の代表メンバー入りを果たした澤登正朗は、全5試合をベンチから見守っていた。いつ出番がきてもいいように準備は整えていたが、結局その機会は訪れず、ピッチに立つことはできなかった。

「ドーハの悲劇」について改めて振り返る澤登正朗氏「ドーハの悲劇」について改めて振り返る澤登正朗氏この記事に関連する写真を見る「力のなさを痛感しましたね」

 澤登は淡々とそう語った。

「スタメンをどれだけ強く望んでいたのか。『出たい』と思っていただけで、本気で(ポジションを)取りにいったのか。そこを突き詰められなかった弱さがあったと思います。

 スタメンになるには何が足りなかったのかというと、"キャプテンシー"ですね。ラモス(瑠偉)さんは人に対して厳しいですし、いろいろと言うけれど、あそこまで熱意を持って言えるかというと、僕はまだまだ至らないと思っていました。技術的にもラモスさんという偉大なゲームメーカーの背中を見るにつけ、ぜんぜん足りなかった。

 国際試合ではフィジカルも足りないと思いましたね。当時、自分は筋トレよりも技術だと思っていたんですが、スペイン遠征や最終予選での激しい当たりを見て、フィジカルの強さが必要だと痛感しました」

 ドーハからの帰りの飛行機では、ラモスから「次の(日本代表の)10番はノボリだぞ」と言われた。澤登にとって「10番」は憧れの背番号だった。

「やっぱり"10番"はエースナンバーですし、"10番"をつけて代表でも活躍したいとずっと思っていたので、そう言われたことはすごくうれしかったですね。僕はラモスさんと同じことはできないですけど、自分のよさを出せるようにもっと力をつけないといけないと思いました」

 アメリカW杯への出場が断たれた翌年の5月、パウロ・ロベルト・ファルカンを新たな指揮官に迎え、新生・日本代表が1998年フランスW杯に向けてスタートした。澤登はドーハの経験者として、新たなチームの先頭に立っていくことを期待された。

「フランスW杯は『自分が』って、思っていました」

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