澤登正朗の「ドーハの悲劇」後日譚。大騒ぎになった記事の真相を明かす (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text&photo by Sato Shun

無料会員限定記事

 しかし、澤登は最初のキリンカップこそ招集されたが、負傷などの影響もあり、その後は代表に呼ばれることはなかった。10月になって、広島で開催されたアジア大会で再び招集されたものの、背番号は"10番"ではなく"16番"だった。

「(新しい日本代表が始動して)最初に"10番"をつけて、次に外された時は『なんで(自分を)呼ばないんだろう』って思っていました。自分では、決して(Jリーグでの)パフォーマンスが悪いとは思っていなかったので。

 メンバー選考には監督の基準があるわけだから、その基準に『入っていないんだな』と理解するしかなかった。だったら、(Jリーグで)結果を出して『(自分を)呼ばざるを得ない状況を作るしかない』と思っていましたね」

 地元開催のアジア大会、日本はグループリーグで首位通過を果たしたが、準々決勝で宿敵・韓国に2-3で敗れた。頂点を争う結果を期待されていたこともあり、指揮官のファルカンは解任された。

 その後、大会中の澤登の発言が世間の注目を集めることになる。澤登が「(協会関係者から)選手のやる気を削ぐような言動があったので、代表をやめる」と言ったと、あるメディアが報じたのだ。

「自分はそんなことを言っていないのに、記事になって大騒ぎ。あれには参りました......。僕が言ったのは、代表の活動に際して、ケガなどの保証をしてほしいということだったんです。

 だって、ドーハの時、僕らの手当は日当3000円ですから。それじゃ、ケガの保証にもならないので、自分のチームに戻った時に困る、という話をしたんです。『代表に行かない』なんてひと言も言っていないですし、代表選手の待遇を少しでもよくしたかっただけなんですが......」

 当時の代表は、まさしく"手弁当"で戦う状況にあった。それでも、選手たちが戦うことをやめなかったのは「W杯に出たい」という気持ちが(協会などからの)手当てや保証などを凌駕するほど強かったからである。

 だが、プロリーグが発足。そうした状況は少しでも改善していくべきだと、多くの選手が思っていた。澤登もそのひとりで、よかれと思った発言が意図しない方向で伝えられてしまった。

 そんな騒動の最中、日本代表はファルカンの後任に加茂周が就任。加茂ジャパンになって以降、澤登は代表から遠のき、いわゆる"ドーハ組"も徐々に姿を消していった。

全文記事を読むには

こちらの記事は、無料会員限定記事です。記事全文を読むには、無料会員登録よりメンズマガジン会員にご登録ください。登録は無料です。

無料会員についての詳細はこちら

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る