トルシエはフランスW杯で知った日本サッカーについて何を思ったか。「最大の弱点はプレーが直線的で予測しやすいことだった」 (4ページ目)
そうして、彼はすぐにある問題に直面した。
「明らかになったのは、フランスW杯に出場した選手たち(の多く)が、私の求める戦術的な知性や技術的な知性を欠いていることだった。彼らは闘志にあふれてアグレッシブだが、技術・戦術面では極めてナイーブであると言わざるを得なかった。
その点においては、五輪世代やユース世代のほうが能力はずっと高い。だから(代表監督に就任して)2年の間に、1998年W杯世代を徐々に入れ替えて、最終的には数人しか残さなかった。それは、中田(英寿)や服部(年宏)らであり、GKの川口(能活)と楢崎(正剛)も残ったが、他は若い世代にとって代わられた」
よく覚えているのは、当時トルシエが「1998年世代はコパ・アメリカまでだ」と語っていたことである。
日本が南米連盟から招待された1999年コパ・アメリカ(パラグアイ)には、1998年W杯世代の多くを主力として参加させる。しかし年が明けた2000年からは、ユース世代を統合した五輪代表でシドニー五輪に臨み、そのチームをA代表と統合してW杯に臨むチームを完成させる――そんなプロセスをトルシエは考えていた。
「"1998年組"はベテランの世代でもあった。中西(永輔)や相馬(直樹)、呂比須(ワグナー)、井原(正巳)......。彼らを若い世代と入れ替えるのは難しくはなかった」
トルシエには、それが規定路線だった。だが、日本代表を取り巻く環境はトルシエの意図など知らず、性急な結果を求めた。
コパ・アメリカでグループリーグ最下位に沈むなど、1999年の日本代表はそこまでに全6戦を戦って0勝3分3敗。ひとつも勝ち星を挙げられないなか、トルシエに対する懐疑的な声が出始める。そして、9月に行なわれた年内最終戦、親善試合でイラン相手に引き分けると、協会やメディア、サポーターなどから出てくる批判の声は、一段と増していった。
しかしトルシエは、そうした批判をまったく気にしていなかった。フランスW杯組中心の代表が成果を挙げられないのは、彼にとっては想定内のこと。思い描いていたのは、翌年からの若い世代によるチーム作り――2002年W杯へとつながっていく道筋であった。
トルシエの頭のなかには、日韓W杯に向けてのポジティブな要素しかなかった。
日本サッカー界とトルシエ――両者の齟齬(そご)が、翌年一気に盛り上がる"トルシエ解任論"へと広がっていくが、それはまた別の話。いつか場を改めて、お伝えできればと思う。
フィリップ・トルシエ
1955年3月21日生まれ。フランス出身。28歳で指導者に転身。フランス下部リーグのクラブなどで監督を務めたあと、アフリカ各国の代表チームで手腕を発揮。1998年フランスW杯では南アフリカ代表の監督を務める。その後、日本代表監督に就任。年代別代表チームも指揮して、U-20代表では1999年ワールドユース準優勝へ、U-23代表では2000年シドニー五輪ベスト8へと導く。その後、2002年日韓W杯では日本にW杯初勝利、初の決勝トーナメント進出という快挙をもたらした。
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