トルシエが明かす日韓W杯メンバー選考の真相「中村俊輔を外すことにためらいはなかった」 (4ページ目)
それは直観であり、その場の雰囲気から直接的に感じられることだ。パワーポイントで明示できるものでもないし、本に書かれてもいない。何かモデルがあるわけでもない。モデルがあるとすれば、それは私自身だ。
私が決断をして、それをスタッフと分かち合った。スタッフも私の決断に異存はなかった。仮にあったとしても、私は自分の意見を通していただろう」
2002年日韓W杯の日本代表入りを果たせなかった中村俊輔この記事に関連する写真を見る 日本中の世論を二分した"中村を選ぶか否か"については、逆に「最も簡単な決断だった」とトルシエは語る。
「彼はケガをしていてプレーができなかったからだ。私が行なったさまざまな決断のなかでも最も容易だった。
彼には戦う準備が整っていなかった。(欧州の)遠征にも帯同したが、練習に加われなかった。本来なら、帯同させる状態ではなく、彼を連れていくことは私にとっても賭けだった。そうしたのは、彼にもう一度チャンスを与えたかったからだ。
だが、ひと月の間(中村は)チームと行動をともにしたが、全体練習に加わることは一度としてなかった。別メニューの調整ばかりで、レアル・マドリード戦にも、ノルウェー戦にも出場しなかった。プレーができる状態ではなかった。
彼が問題を克服しようとしているようには見えなかったし、意志の強さも感じられなかった。だから、三都主と中村のどちらを選ぶかという時、私に一切の躊躇(ためら)いなかった。
繰り返すが、決断は簡単だった。中村はプレーできる状態ではなかった。そこに議論の余地はまったくなかった。三都主は100%の状態であったのに、中村は30%でしかなかった」
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