2022.06.06

【日韓W杯から20年】FIFA会長の裏切り行為も。招致活動は日本有利で進むも韓国との共催になった理由

  • 後藤健生●text by Goto Takeo
  • photo by AFLO

日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画
「日本サッカーの過去・現在、そして未来」

 日本を熱狂の渦に巻き込んだ、サッカーの2002年日韓W杯から20年が経った。この特集では、当時のサッカー界の模様を様々な角度から振り返っていく。
 アジア初のW杯開催を巡って、日本と韓国で激しい招致活動が繰り広げられていたが、最後はW杯史上初の共同開催という驚きの結果になった。この経緯を1974年大会からW杯を取材しているベテラン記者が綴る。

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「2002年大会をアジアで開催したい」

 2002年のFIFAワールドカップは、史上初めてアジア大陸で、そして史上初めて2カ国共同開催という形で開催された。

 最初に「日本開催」の話が出たのは1970年にワールドカップがメキシコで開催された時だった。大会の視察に訪れた日本サッカー協会の野津謙会長に対して、FIFAのスタンリー・ラウス会長から「1978年大会を日本でやれないか」と打診があったのだ。

2002年W杯の日韓共催が決まった直後の日本の長沼健会長(左)韓国の鄭夢準会長(右)2002年W杯の日韓共催が決まった直後の日本の長沼健会長(左)韓国の鄭夢準会長(右) この記事に関連する写真を見る  しかし、日本側はすぐにその申し出を断った。誰もが「無理だ」と思ったのだ。

 日本は1968年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得していた。だが、当時のオリンピックはアマチュアだけの大会。西欧や南米のチームはプロ契約をする前の若手や純粋アマチュアだけのチームで、プロ級が参加する東欧の社会主義国がほとんどメダルを独占していた。銅メダルを取った日本も、準決勝で対戦したハンガリーには0-5と大敗を喫していた。

 僕が初めてワールドカップ観戦に現地まで行ったのは、1974年の西ドイツ大会だが、そこで見たのは普段日本で見慣れていたサッカーとはまったく別の競技のようだった。テクニックも、スピード感も、フィジカルの強さも日本のサッカーとは比べ物にならない。当時の日本は、アジア予選を突破することすら"夢のまた夢"という状態だったのだ。

 それに、日本には野球場を除けば、5万人を収容できるスタジアムは東京の国立競技場しかなかった。

 それから16年の時間が経過して、1986年に再びメキシコでワールドカップが開かれた時、また日本開催の話が出た。FIFAのジョアン・アヴェランジェ会長が「2002年大会をアジアで開催したい」と発言したのだ。

 ブラジル出身のアヴェランジェ会長は、欧州諸国以外の支持を集めて会長選挙で勝利した。そのため、アジア、アフリカでのサッカー振興に熱心だったのだ。そして、もしアジアで開催するとすれば、当時、世界第二の経済大国だった日本が最有力候補なのは誰の目にも明らかだった。