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中村俊輔が02年W杯メンバーに選ばれなかった非情。トルシエが代表監督の4年間は成功だったのか (3ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • 山添敏央●写真 photo by Yamazoe Toshio

【「トルシエの年俸はいくら?」とヒディンク】

 トルシエには、ピンチを迎えているとの自覚はあったようだ。コルドバから帰国して開かれた記者会見で、自分のサッカーを正当化する言葉を並べ、半分虚勢を張る姿に、それは現れていた。

 翌2001年の5月30日、コンフェデレーションズ杯が開幕。日韓共催W杯のプレ大会というべきこの大会で、トルシエジャパンは準優勝という成果を収めた。トルシエは完全にピンチを抜けだしていた。

 一方の共催国の韓国はグループリーグ落ち。共催国に遅れを取りたくない気持ちが、韓国は日本の何倍も高かった。韓国のメディアは「代表監督解任だ」と騒いだ。

 筆者はさっそく、その代表監督に話を聞こうと韓国を訪れた。フース・ヒディンクは余裕綽々(しゃくしゃく)というか、自信満々というか、泰然自若とした構えで、深々とソファに座り、こちらを迎えてくれた。

 ヒディンクが就任したのは2001年の初頭。韓国代表監督としての契約期間はW杯本番終了時までの1年半で、コンフェデ杯は就任して半年後のイベントだった。彼は1年半のスケジュールをこちらに見せ、こう述べた。

「任期の半分までは、負け続ける設定にしてある。8月(2001年)あたりから浮上してくるはずなので、そのつもりで見ていてください」

 実際、2002年になって本大会が近づくにつれ、韓国の右肩上がりが急になった。

 実はヒディンクにはその前の年の秋にもインタビューしていて、その時、「トルシエが日本協会とどれほどの年俸で契約しているか」と尋ねられた経緯があった。「たぶん1億円強ではないですか」と答えたその翌日、現地の新聞を見て驚いた。そこにヒディンクの韓国代表監督内定のニュースが掲載されたからだ。

 本大会には、トルシエもヒディンクも3バックで臨んだ。ヒディンクはコンフェデ杯では4-3-3、4-2-3-1を採用していたが、本番が近づくとオランダ伝統の3バック(3-4-3)に切り替えた。4分割表記にすると3-3-3-1だ。対するトルシエは3-4-1-2。攻撃的な3バック対守備的な3バックという構図になっていた。

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