日本代表の惨敗はドイツW杯開幕の5日前に見えていた。甘すぎたジーコへの評価
何かが起こるW杯イヤー(3)~2006年
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ジーコジャパンがアジア予選を突破したのは、2006年ドイツW杯本大会が開幕する約1年前。イラン、バーレーン、北朝鮮と戦ったアジア最終予選で、本大会出場枠である2位以内を早々と確保した。
予選の最終戦(イラク戦)で引き分け、本大会の出場権を逃してしまった1994年アメリカ大会。初のW杯出場権をアジア第3代表決定戦の末にようやく勝ち取った1998年フランス大会。2002年日韓共催大会は、開催国の特権で予選を免除されるという展開だった。ジーコジャパンはすなわち、過去3大会のどれにもあてはまらない状況に置かれることになった。
つけ加えれば、「W杯本大会に出場したことのない国が、W杯を開催した過去はない」というプレッシャーに苛まれながら戦ったのが1998年フランス大会予選。2002年日韓共催大会も「開催国が決勝トーナメントに進めなかった例はない」との強迫観念にかられながらの戦いだった。
ジーコジャパンにはそうした目に見えない呪縛もなかった。予選が組分けに恵まれたことを忘れ、兜の緒を締めることなく、浮ついたムードのまま本番に向かっていったという印象だ。なによりメディアのジーコ評が甘かった。「ジーコは結果を出す男。強運の持ち主」と持ち上げた。
日本代表監督にとって結果を出すとは何を意味するのか。緩い設定の予選を突破することなのか。W杯本番でそれなりの結果を残すことなのか。その褒め言葉にはいみじくも、予選突破に満足する国内のムードが集約されていた。
本番までの1年間は、昨今の状況とは異なり、試合にはこと欠かなかった。コンフェデレーションズ杯(ドイツ)、東アジア選手権(韓国)の2大会に出場。ラトビア、ウクライナ、アメリカ、さらにはボスニア・ヘルツェゴビナと戦うためにドイツ(ドルトムント)にも遠征している。
ジーコ(右)とジーコジャパンを支えた三都主アレサンドロ(左)この記事に関連する写真を見る しかし、戦えば戦うほど、構造的な欠陥を抱えていることが明るみになった。布陣は古いブラジル式の4-2-2-2。2トップの下で構える攻撃的MF(中村俊輔、中田英寿)が、表記以上に真ん中に寄って構えたため、相手がサイドに各2人を擁す4-2-3-1的な布陣で向かってくると、サイドで数的不利を招いた。
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