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日本代表の惨敗はドイツW杯開幕の5日前に見えていた。甘すぎたジーコへの評価 (2ページ目)

  • 杉山茂樹●文 text by Sugiyama Shigeki
  • 藤田真郷●写真 photo by Fujita Masato

【狙われる日本の両サイド】

 主に三都主アレサンドロ(左)、加地亮(右)で構成した両サイドバック(SB)は、そのしわ寄せをモロに食らった。両サイドの長いエリアをひとりでカバーさせられる、体力的にきついポジションになった。

 日本には当時、劣悪な労働条件を表す3K(きつい、汚い、危険)なる言葉が流行していたが、ジーコジャパンのサッカーに落とし込むなら、それは両SBに相当した。

 相手にとっては、日本の両SBの裏は狙い目となった。それはジーコジャパンの構造的な問題であったにもかかわらず、「三都主は守れない。戻れない。三都主の背後は危ない」などと、選手個人の問題に置き換えようとする稚拙な報道も目立った。

 両SBは時間の経過とともに後方待機を迫られた。最終ラインには、相手が1トップしかいなくても、4人がべったり並ぶ、後ろに重たい非効率なサッカー。事実上の守備的サッカーに陥った。

 だが、真の意味での守備的サッカーではない。うしろに人が多くいても崩されることがよくあった。相手がサイドを各2人がかりで突いてくると、SBだけでは対応できない。数的不利になる。守備的MF(主に福西崇史、中田浩二、稲本潤一ら)はたまらず、加勢に出る。すると今度は真ん中が手薄になる。

 5-4のスコアで勝利したホンジュラス戦(2005年9月7日)は、その典型的な試合だった。スコアを見る限りは撃ち合い。攻撃的サッカーを展開したうえでの勝利に見えるが、実際は守備的サッカーのなれの果てと言いたくなる前時代的なサッカーだった。後半33分、日本は小笠原満男のゴールでリードを奪うと、ジーコはさらに守備的な作戦に出た。布陣を3-4-1-2に変更。事実上の5バックで守備を固めた。

 3-4-1-2は90年代後半、イタリア、ドイツを中心に流行し始めた布陣で、トルシエジャパンの定番スタイルでもあった。欧州では攻撃的サッカーの台頭に伴い、使用率はほどなくすると低下したが、Jリーグではトルシエサッカーの影響で当時、半数以上のチームが5バックになりやすいこの守備的布陣を使用していた。「なぜ3-4-1-2を使用するのか」と問われたジーコは「Jリーグで一番、流行っている布陣だから」と答えている。

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